第107章 嫉妬は甘い蜜の味
厳しく叱言を言いながらも心配そうに信長の顔を覗き込む政秀は、信長の記憶の中の政秀と変わらなかった。
(これは…きっと夢だ。俺は夢を見ているのだ。夢など滅多に見ないが、そう思わねば理屈が合わん。じいはもうこの世にはいないのだから…)
夢ならばいつかは覚める。ならば今この時ぐらいは久方ぶりに昔に戻ってみるのも悪くはない。
「若?三郎様?聞いておられますか?」
「大丈夫だ、じい。ちゃんと聞いてる」
「ならばお早くお支度を。新年早々刻限に遅れては大殿のお怒りを買うことになりましょうぞ」
「チッ…面倒な。父上も母上もうつけの俺の顔など見たくはないだろうに。形式的な新年の挨拶など何の益もない。行くだけ時間の無駄だ」
「左様に捻くれたことを言うものではございません。大殿にも御前様にも久方ぶりにお会いするのですから、くれぐれも粗相のないように頼みますぞ。くれぐれも…」
甲斐甲斐しく信長の着替えを手伝いながらも、政秀の叱言は止まらない。あれはダメ、これはするな、と煩いぐらいに並べ立てる。
ダメと言われて大人しく言うことを聞く信長ではないと分かっているはずなのに、言わねば気が済まないのだろう。
「分かった分かった。新年早々喧しいぞ、じい」
「なっ…若のせいではないですかっ!全く貴方ときたら、人の話をちっともお聞きにならないのだから…あっ、お待ち下さい。まだ話は終わっておりませんぞ…」
「急ぐのだろう?父上と母上を待たせるなと言ったのはじいだぞ?」
「むっ……」
ぐっと言葉に詰まる政秀を横目に、支度を済ませた信長はさっさと部屋を出ていく。
年の始まりだからといって信長に特別な感慨などはなく、本音を言えばこのまま気の置けない仲間達といつものように城下へでも繰り出したいところであった。
新年早々父の城へ行かねばならないなど憂鬱極まりなく、考えるだけで気が重かったが、致し方ない。
(母上は…正月ぐらいは俺に何か言葉をかけて下さるだろうか…いや、そのようなくだらぬ期待はするものではないな。俺には父も母もおらぬも同然なのだから…)
自嘲めいた笑みを口元に浮かべながらも、もはや信長の足取りに迷いはなかった。