第107章 嫉妬は甘い蜜の味
「政秀……?」
入り口の前に立ってこちらを見下ろしているその人物に信長は確かに見覚えがあった。
だがそれは遠い遠い昔の記憶であり、その人物は今ここに居るはずのない……
「若っ、いつまで寝ておられるのですか!まだそんな寝間着のままで…今朝は古渡のお城で年始の会があるので早めにお支度をと、昨夜あれほど申し上げましたでしょうに…さぁさぁ、早う起きて下され!」
「っ……」
(どういうことだ…政秀が…じいが何故…)
信じられないものを見るように目を瞠る信長を余所に、政秀は一分の隙もない優雅な所作で部屋に入ってくると、信長の褥の傍までやって来て一切の遠慮なく布団を剥ぎ取った。
ヒヤリとした冬の冷気が足元を襲い、信長は反射的に顔を顰める。
「貴様、何をする?寒いではないかっ!」
「ならばさっさとお着替えなされ。いつまでも寝間着のままでおられるから冷えるのです。早う着替えて城主としての務めを果たされませ」
信長の訴えをピシャリと跳ね退けて叱言を言い始めた政秀を、信長はマジマジと見つめてしまう。
目の前にいるこの男、これは確かに政秀だ。信長に対してこんな風にずけずけと物申すことのできる男は政秀以外にいなかった。
『平手政秀』
父、織田信秀の有力な家臣であり、嫡男である信長が生まれるとその傅役を任され、教育係として常に傍にあった男。
幼くして父母と別れ一城の主となった信長に、実の父母以上の愛情を注いで支えてくれた男。
尾張の大うつけと言われ、国内外から侮られる信長に、城主としての振る舞いを説き、最後まで諭し続けた男。
平手政秀は幼き頃の信長にとって特別な存在の男だった。
だが、早くに父を亡くし、家督争いで揺らぐ織田家中で信長が己の信じる道を進もうとしていた矢先、政秀は自ら命を絶ったのだ。
(生まれてこの方後悔などしたことがない俺が、じいの死の知らせを聞いたあの時だけは己の進む道に迷いを感じた。それほどにあの頃の俺には真に信じられる者が少なかった)
「……若?如何なされた?もしやお加減でもお悪いのですか?」
布団を剥ぎ取られたまま黙って思案に耽るような素振りの信長に、政秀が心配そうに声を掛ける。
常ならば勢いよく布団を跳ね飛ばして起き上がる信長を「行儀が悪い」と言って叱りつけるのが政秀の日課であった。