第107章 嫉妬は甘い蜜の味
朝の支度をする下働きの者達の声が聞こえ、信長は微睡みの中からゆっくりと意識を浮上させる。
廊下を行き交う複数の人の足音にふいに違和感を覚えて信長は褥の中で身動いだ。
「っ…もう朝か?」
寝所の中はまだ薄暗かったが、朝日が昇りつつあるのだろう、障子の向こうから蒼白い光が射していた。
褥に身を横たえたままで周囲を見回した信長は、そこが見慣れた天主の寝所ではないことに気付く。
そもそも人払いがなされた天主に下働きの者が出入りするはずもなく、このような早朝から人の気配を感じることに違和感は広がるばかりだった。
昨夜は年越しの夜、梵鐘を聞きながらいつものように朱里と愛を交わし合い、快楽の波に揺蕩うようにして眠りについたのだった。
「っ…朱里っ…?」
隣で眠っているはずの愛しい妻の名を呼ぶが返事はなく、よくよく見れば信長が身を横たえていたのはいつもの西洋式の寝台ではなく一人寝の布団であった。
(これは…どういう訳だ?ここは…天主の俺の部屋ではないのか?朱里はどこへ行った?)
次々に湧き起こる疑問を抱えたまま身を起こし、信長が己の置かれた状況を見極めようとしたその時、廊下を歩いてくる何者かの足音が聞こえてきた。
(こっちへ来る…誰だ?このような朝早くに俺の部屋を訪れる者といえば秀吉ぐらいだが…)
「おはようございます」
足音が部屋の前でピタリと止まったかと思うと、凛とした声が響く。
それは秀吉のものではなかった。
どこかで聞いたことがあるような声だと思いながら、呼びかけに答えることなく記憶の糸を手繰り寄せる信長だったが……
「お目覚めですか…三郎様?」
声の主は信長のことを『三郎』と呼んだ。
その名で呼ばれるのはいつ以来であろうか、今の自分がそう呼ばれるとは思いも寄らず、何とも言えない懐かしさを感じてしまった。
(どういうことだ?そんな筈は…だがこの声は…いや、しかしそんなことがある訳がない。彼奴はもう…)
らしくもなく頭が混乱し、思考が激しく入り乱れている。
何か言わねばと思いながらも、酷く喉が渇いた感じがして声を発することができなくなり、息苦しさからごくりと唾を呑み込んだ。
「っ……」
「……若っ、入りますぞ!」
返事のない俺に痺れを切らしたのか、声の主は先程までの丁寧な口調から一転し、大きく声を掛けて襖を勢いよくスパンっと開いた。