第104章 魅惑の果実
再び真剣な表情で書簡を改め出した信長は、完全に政務に集中しているようだった。
邪魔をしないように静かに執務室を出た朱里は、ドキドキと早鐘を打つ胸を押さえながら足早にその場から離れた。
廊下の角を曲がり、周りに人がいないのを確認して、漸く息を吐き出した。
「っ…はぁぁ……」
(何だったんだろう、あれ…本当に桃にそんな効力が…?)
信長様が甘い言葉を囁くたびに桃の香りが芳しく広がって…それはまるで媚薬のように私の身も心も惑わせた。
桃の甘い蜜の味を思い出すたびに、甘美で邪な欲が私の中に湧き上がる。
(今宵、信長様に……)
そう思うだけで身体の奥が熱く火照り、淫らに蕩け出す。
夜まで待てないと思うほどに、じくじくといやらしく疼き始めていた。
朱里が覚束ない足取りで執務室を出ていくのを信長は書簡に視線を落としたまま、傍目には平静を装い見送った。
廊下をパタパタと小走りで去る足音を聞きながら、ふぅ…と小さく息を吐いて顔を上げる。
悩ましげに眉を顰めた信長の顔は、ほんのりと赤くなっていた。
久しぶりに触れた朱里の柔らかな唇の感触に、胸が騒めく。
一度触れれば己はきっと歯止めが効かなくなると分かっていたのに、触れてしまった。
桃に媚薬めいた効果などあるはずもないのに、他愛もない戯れ言を言い、愛しい女に触れる口実を作るなど、我ながらうつけだと可笑しくなる。
「あやつを前に我慢をするなど…今更ながら無理なことだったな」
自嘲気味に言いながらも、信長の顔は晴れやかだった。
長旅から戻り、休む間もなく溜まった政務を片付ける日々は、予想はしていた。
それゆえに一切の雑念を排除し、ただ目の前の仕事を片付けることだけに集中した。
それこそ、寝る間も惜しみ、朱里に触れたい欲も抑えて…
朱里が、休まぬ俺を心配してあれこれ世話を焼こうとしていることには気付いていたが…気付いていながら、敢えて素っ気ない態度を取り続けたのは、『政務が片付くまでは朱里には触れない』という己の中で決めた戒めがあったからだ。
触れれば最後、身も余もなく溺れてしまう自覚があった…愚かなことに。
「旅の間、あれほどに独り占めしたというのにまだ足りぬとは…我ながら欲深きことよ」
抑えれば抑えるほどに強くなっていく己の欲の深さに、信長は諦めたように薄く笑いを溢した。