第104章 魅惑の果実
「失礼します、信長様。入ってもよろしいですか?」
本日二度目の執務室への訪問は、些かの緊張を感じた。
呼びかけにすぐに返答がないことが、緊張に拍車をかける。
「………ああ」
僅かな沈黙の後に聞こえてきた低めの返事に怯みつつも、そおっと襖を開けると、信長様はちょうど書簡に筆を入れておられるところだった。
真剣な表情で筆を運ぶ姿に、続けて声を掛けるのも躊躇われたので、邪魔にならないように静かに襖を閉めて部屋の入り口の辺りに座って待つことにした。
(お部屋の様子を見る限りでは、さっきより少しは片付いたみたいに見えるけど…あぁ…書簡を書くお姿も凛々しくて素敵だな)
迷いのない優美な筆使いで書簡を書き上げていく姿に見惚れ、ついうっとりと眺めてしまう。
「……何かあるのか?」
俯いて黙々と手を動かしていた信長様だったが、目線はそのままで不意に問いかけられる。
「えっ…あ、すみません、あの、政宗から桃をいただいたんです。よかったら召し上がりませんか?」
「桃?あぁ、もうそんな季節か…ん、良い香りがするな」
手を止めて顔を上げた信長様は皿の上の桃を見て、すぅっと匂いを嗅ぐ仕草をする。
「私、先にいただいてしまったんですけど…とっても甘くて美味しかったですよ!信長様も召し上がって下さい」
信長様が興味を示してくれたことが嬉しくて、桃の皿を嬉々として差し出した。
「確かに美味そうだな。朱里、食わせろ」
「はいっ!…って…えっ!?く、食わせろ…って…?」
「生憎まだ仕事の途中でな、手が離せん。ゆえに、貴様が手ずから俺に食わせろ」
至極当然のように言い放つと、書きかけの書簡を置いた文机をずいっと横にやって私の前ににじり寄る。
先程までの素っ気なさから一転して膝が触れ合いそうな近しい距離になってしまい、何だか急に焦りを覚える。
「っ…えっ…近いですよ?」
「当たり前だ。近付かねば手ずから食えんではないか。ほら、早くしろ」
「は、はい……」
今にも『あーん』と口を開けそうな信長様の様子に、嬉しいような恥ずかしいような様々な感情が入り乱れる。
(さっきまで素っ気なくて冷たいぐらいだったのに…急にこんな風に甘えられるなんて思ってもみなかったな…)