第104章 魅惑の果実
次の日の昼過ぎ、私はまた政務中の信長様にお茶を持っていった。
「失礼します、信長様。お茶をお持ちしました」
「ああ、すまんな」
信長様は私の方をチラリと見たものの、書類を捲る手を止めずに言う。
相変わらず、信長様の周りには書類が山のように積まれている。
「あの…少し休憩なさいませんか?お菓子もありますよ」
「ん…いや、今はよい。そこに置いておいてくれ」
手元の書類から目を離すことなく言うその口調は素っ気なくて…それ以上声を掛けるのは憚られてしまう。
(本当に忙しそう。目線も合わないのは、さすがに淋しいな。いつもはそんなことないのに…)
信長様はどんな時も優しくて、私のことを気遣ってくれる。
旅の間、時間を惜しむように人目も憚らず触れ合っていたのが嘘のように、旅から戻ってからの信長様は別人のように素っ気なかった。
帰城して早々に政務に追われ、お忙しいからだとは分かっているが…やっぱり淋しいと感じてしまう。
(旅の間は、私の方が戸惑うぐらい甘やかされたのに…)
我知らず恨めしげな目で見てしまっていたのだろうか、信長様が徐ろに見ていた書類から顔を上げる。
「……何だ?何か言いたそうだな」
「えっ…い、いえ、別に…」
「…………」
訝しげな目でジトッと見つめられてしまう。
「本当に何もないですよっ!信長様のお身体が心配なだけで…」
「またその話か…これぐらいは忙しいうちに入らん」
「で、でも、昨夜もほとんど寝ておられないでしょう?こんな状態が続けば、いつか倒れてしまいます!」
「たわけっ!俺はそんなに弱々しくはないわ。数日ぐらい眠らずともどうということはない」
呆れたように私を見ながら、ふてぶてしく言い放つところは信長様らしいが、それでも私はやっぱり心配なのだ。
「でも…やっぱり心配なんです。お願いですから少しは休んで下さい」
「溜まっている仕事が片付いたら休む。落ち着いたらたっぷり可愛がってやるから、大人しく待っておれ」
「もうっ!そういう話じゃないですよ!」
揶揄い混じりに笑われて、何となく曖昧にはぐらかされてしまったようだ。
(やっぱり信長様は一筋縄じゃいかない人だ。あぁ…この人に口で勝てる気が全くしない)
話は済んだとばかりに、また手元の書類に目を落とした信長様に、私はそれ以上話し掛けることもできなかった。