第103章 旅は道連れ
意外な話の展開に戸惑ってしまった私は、何と言っていいか分からずにじっと信長様を見つめた。
「未だ尾張一国を治めることにも手を焼いていた俺が、小さな国から外へ目を向ける転機となった戦だった…『桶狭間』での今川との戦は」
「桶狭間…今川家との戦…」
「もう随分と昔のことゆえ、今川と聞いても貴様もすぐには分からぬだろう?あの戦で織田は勝利し、主を失った今川は急速に内外における影響力を失い、見る見るうちに衰退した。北条はかつては今川とも同盟関係であったが、貴様は覚えてはおらんか?」
「そうですね、あまり詳しいことは存じませんが、北条と今川、甲斐の武田も含めた三国は姻戚関係による同盟を結んでいたと聞いています。当事、桶狭間での織田と今川の戦のことは、小田原でも大層な噂でした。織田軍の奇襲、予想外の劇的な勝利であった…と。まさに信長様が天下にその名を轟かせた戦でございましたね」
「あの日も雨が降った。今川の本陣を急襲するため秘かに山道を行軍する織田軍の頭上に黒雲が見る見るうちに広がって、あっという間に滝のような激しい雨になった。それこそ、人馬の足音もかき消すほどのひどい雨だったが、俺にとっては恵みの雨だった」
外の雨音に耳を澄ますように、信長様は私を腕に抱きながら遠くを見るような目をされる。
「周りも見えなくなるほど激しく打ち付けるような冷たい雨だったが、雨の冷たさも感じぬほどに兵達の士気は熱く高揚していた。後にも先にも、あれほどに皆の心が昂った戦はない」
「珍しいですね、信長様がそのように戦の話をされるなど…」
「これまで数多の戦を経てきたが、桶狭間でのあの一戦は、やはり忘れられぬ。このように雨が降ると、不意に思い出すことがある。どうしてだか分からぬがな」
くくっ…っと小さく自嘲するように笑う。
「俺にとってあの戦の勝利は予想外でも劇的でもなかったが…あの勝利によって進むべき道がはっきりした。あの男…今川義元には感謝せねばな」
「信長様…」
数多の敵に打ち勝ち、己の大望のために心を凍らせて戦場で刀を振るってきた信長様。
恨み、憎しみをその身に抱え、それでも自らの信じる道を進んできた貴方に、穏やかに日々を過ごせる日常が訪れることを願わずにはいられない。
こんな雨の日でも信長様に少しでも温もりを感じて欲しくて、私はその背に腕を回してそっと抱き締めた。