第102章 薫風に泳ぐ
「父上、母上、早く早くっ!」
「結華、あまり先を急ぐでない。危ないぞ」
午後、政務を片づけ、秀吉さんの叱言もあっさりと聞き流したらしい信長様は、私と結華を連れて悠々とした足取りで城下へと続く道を歩んでいる。
「ふふ…結華、嬉しそうですね。三人で城下へ出掛けるの、随分と久しぶりですものね」
「ん…そういえばそうだな」
足取りも軽く少し先を行く結華を微笑ましい思いで見守りながら、隣を歩く信長様に視線を向けると、信長様もまた柔らかな表情で結華を見ておられた。
日頃、家臣達の前では厳しい顔を崩さない信長様が、私達の前では柔らかな優しい表情を見せて下さる……それがとても嬉しかった。
「吉法師が大きくなったら四人でも出掛けたいですね」
「そうだな。子の成長は早い。家族水入らずで過ごせる時間というのも、案外あっという間かもしれんな」
「信長様……」
何気なく口にされた信長様の言葉が、胸の奥をきゅっと締め付ける。
信長様と出逢ったばかりの頃の私は、この戦乱の世で愛する人と家族になり、このような穏やかな時を過ごせる日が来るとは思ってもいなかった。
戦や一揆の不安が常に身近にあり、戦場に赴かれる信長様を見送るたびに強く胸が締め付けられた。
今も戦の不安が完全になくなったわけではないが、愛する人と可愛い子供達と共に過ごせる穏やかな日々に、満たされた心地でいっぱいだった。
(今、この時が何よりも幸せ…この幸せがずっと続いて欲しい)
この上なく幸せな気持ちに突き動かされた私は、私の歩幅に合わせて隣を歩いてくれていた信長様の手に触れ、そっと握り合わせた。
大きくてゴツゴツした手は勇ましい武将の手そのもので、この手がこれまで何度も私達を守ってきてくれたのだと思うと、愛しくて堪らなかった。
「……どうした?今日は手は繋がぬのではなかったのか?」
思いがけない私の行動に驚いた表情を見せながらも、信長様はすぐに私の手をぎゅっと握り返してくれる。
帯解きを終えて少し大人に近付いた結華の前で手を繋ぐのが何となく恥ずかしくて、城を出てすぐに私の手を取ろうとした信長様を私はやんわりと止めていたのだった。
「っ…信長様…私、今、とても幸せです。信長様と子供達と穏やかに過ごせる今がかけがえのないものに思えて…大切にしたいと思えて…離したくないと思ってしまいました」