第102章 薫風に泳ぐ
慌ただしい足音と聞き慣れた声に、私に覆い被さる信長様の身体がピタリと止まる。
「チッ…秀吉め、早いわ」
信長様は苦々しげに舌打ちをすると、あからさまに不満げな表情を隠そうともせず、盛大な溜め息を吐く。
ゆったりと身を起こしながら、気怠げに髪をかき上げる仕草が艶っぽくて、ドキドキしてしまう。
秀吉さんが信長様を呼ぶ声に現実に引き戻されて、口付けのその先を期待してしまっていた自分が急に恥ずかしくなる。
乱れた着物を直しながら、あたふたと身を起こす私を信長様はふわりと柔らかく抱き締める。
「あっ…信長様…?」
「この程度では貴様を堪能したとは全くもって言い難いが…仕方がない。続きは夜まで待て」
耳元で甘く囁いてから、額に一つ、ちゅっと口付けを施して、信長様はさっと立ち上がった。
入り口の方へ向かいながら、思い出したように言う。
「午後から結華と学問所へ行くのだったな。俺も同行するゆえ、そのつもりでおれ」
「えっ…えええっ…一緒に?何で…?あの、午後のご政務は?秀吉さんは?」
「学問所の運営状況を視察する。これも立派な政務だ。秀吉に文句は言わせん」
事も無げに言うと、さっさと出て行ってしまう信長様にそれ以上声を掛けることもできない。
「ああっ、御館様!勝手にいなくなられては困ります!」
「煩い、秀吉。俺の城でどこへ行こうが俺の勝手だ」
「そんな無茶苦茶な…あっ、お待ち下さい!」
バタバタと慌ただしく去って行く足音を聞きながら、私は呆然とその場に座り込んでいた。
(佐助くんが天井裏からやって来て…端午の節句で…鯉のぼりを貰って…信長様が来て…く、口付けされて…秀吉さんが…)
次々に起きる目まぐるしい展開に、頭がついていけていなかった。
(学問所の運営状況を視察する…?それって、信長様、結華が心配だからついて行きたいだけじゃないの??もぅ、勝手なんだから…でも……)
視察とはいえ、信長様と結華と三人で出掛けられることには変わりなく、急なことに戸惑いつつも、久しぶりの親子での外出に心が浮き立ってくるのを抑えられなかった。