第101章 妻として母として…その先に
前方から小走りで駆けてくる人影が見えた。
「信長様、誰かこちらに来ますね」
「あぁ、あれは……」
ゆっくりと見えてきた人影はどうやら二人で、年老いた老婆とそれを支える中年の男性のようだった。
「信長様っ…お待ち下さい!」
「信長様っ…」
二人は口々に信長様の名を呼びながら、必死に駆けてくる。
信長様の馬の前まで来た二人は、はぁはぁ…と荒く息を吐きながら馬の前に平伏する。
「あっ…あなたはあの時のお婆さん…」
苦しそうに息を吐く老婆は、先の視察の際に出会ったあの老婆だった。
「信長様、ご無礼をお許し下さい。母が一言お礼を申し上げたいと言っておりまして…もう一度お越しになるのを、今か今かとお待ちしていたのです。どうか暫く…」
男は額が地面に付くほどに頭を下げ、老婆は馬上の信長様に向かって手を合わせている。
「おい、頭を上げろ。構わぬ」
いつもの感情の籠らぬ冷たい口調で言う信長に対して、二人は恐る恐る顔を上げる。
「信長様っ…その節はありがとうございました。信長様のおかげで先祖代々の土地を失わずに済みました。本当にありがとうございます」
再び深く頭を下げる老婆に対しても、信長様の表情は変わらない。
「礼を言われることではない。貴様の申したことをこちらでも調査したところ、名主の方に非があると分かったゆえ、然るべき仕置きをしたまでだ。あの男を名主に任じた責任は俺にもある。俺は俺の為すべきことをしたまでだ。礼など不要だ」
「訴えを聞いて下さっただけでありがたいことだと…更には、村に学問所までお作り下さるとは…私達のような身分の者が読み書きを学べる日が来るとは思ってもおりませんでした。村の子供達もとても喜んでおります。本当にお礼の申しようもございません。ありがとうございました」
「礼はいらんと言うておろうに……身分など、これからの世には無意味なものになる。そのような世に、この俺がしてみせる。
話はそれだけか?行くぞ、朱里」
「は、はい…」
面倒そうに言いながらも、信長様の表情はどことなく柔らかかった。
真っ直ぐに前を向き、馬を歩ませる信長様を、二人は深々と頭を下げていつまでも見送っていた。