第101章 妻として母として…その先に
村々の視察をあらかた終えて、他愛ない話をしながら馬を並べて田舎道を進んでいた私達の前方に、道の真ん中で座り込む一人の老婆の姿が見えた。
「信長様、あれは…」
「御館様の御前を妨げるとはなんと無礼な!御館様、暫しお待ち下さい。退くように言って参りますので!」
お付きの家臣の方が、憤った様子で前へ出ようとするのを、信長様は鷹揚に制する。
「構わん。具合が悪いのかもしれん。話をしてみよう」
そう言うと、怖がらせぬようにゆっくりと馬を歩ませて、蹲る老婆の傍に近づき、声を掛ける。
「おい、こんな所で何をしている?往来の邪魔だ。どこぞ具合でも悪いのか?」
見れば、老婆は両手で顔を覆って泣いているようだった。
この辺りの村の者であろうが、粗末な着物を身に付けたやつれた様子には、何事か事情があるように見受けられた。
馬上から声を掛けられて、ビクリと身を震わせた老婆は恐る恐る顔を上げて馬上の信長を見上げると、ひいっと小さく息を飲み、慌ててその場に平伏した。
「この村の者か?何故このような所で泣いておる?理由を申せ」
「お、お許し下さいませ。私はこの村に代々住む者ですが、この村の名主様に家も田畑も全て取られてしまい…これからどうやって生きていけばいいのかと…途方に暮れていたのでございます」
「家も田畑も、とは…何か訳あってのことか?」
「それが…昨年は梅雨の長雨のせいで米の生育が思わしくなく、取れ高も悪かったのです。でも、昨年新しくなった名主様からは例年通りの年貢を納めるように言われ…町へ出稼ぎに出たりして何とか分割で少しずつ納めてはきたのですが、納めても納めても一向に減らず、それどころか納める額がどんどん増えていき、もうこれ以上は無理なところまできてしまったのです。
結局、『払えぬ時は家と田畑を譲る』との証文を盾に村を追い出されてしまいました。けれど、私は読み書きが出来ぬので、そのような証文を書いた覚えはないのです。字が分からぬまま血判を押させられて、もう、どうしたらいいのか…」
「っ…ひどい」
涙ながらに語る老婆の話は、聞くからに不当なもののように思われる。
城下外に出れば、領民達の識字率は低く、この老婆のように読み書きが出来ぬことで不当な扱いを受ける者も多いのかもしれない。