第100章 君に詠む
「朱里っ!」
同じく別堂へ向かうために立ち上がった朱里が、胸元を押さえて倒れそうになるのを、信長は間一髪のところで抱き止めた。
「ぁっ…どうして…信長様?」
突然抱き締められて驚いてはいるものの、意識はあり、毒を飲んだらしき様子は見られない。
信長の胸元にくったりと預けられた身体は熱く、頬もほんのりと上気している。
(酒に酔ったのか…急にどこか具合でも悪くなったのか…?)
「っ…すみません、信長様…私、少し酔ってしまったみたいです。いつもならこんなことないのに…お酒、弱くなってしまったみたいで…」
「構わん。歩けるか?」
足元がふらつく朱里を支えて歩きながら、信長は胸の内で沸々と怒りが湧き上がるのを感じていた。
どうやら毒を盛られたわけではなさそうであり、ひとまずは安堵したが、明らかに具合が悪そうな朱里の様子に心配と苛立ちが綯い交ぜになって、信長の胸の内はどす黒い怒りに染まっていくようだった。
「信長様…ごめんなさい。私、不甲斐ないところをお見せしてしまって…っ、でもあと少しだし…大丈夫ですから…」
「よい、気に致すな。貴様に非は無い。公家どものつまらぬ嫌がらせだ」
「えっ…?」
苦しそうに息を吐きながら、朱里は不思議そうに信長を見る。
人を疑うことをしないこの純粋な女は、自分が口にした酒に悪意に満ちた細工が為されていたなどとは思いも寄らぬのだろう。
申し訳なさそうに自分を責める口振りには、一切の表裏がない。
愛しい女の純粋さを汚されたような気がして、信長の苛立ちは募るばかりだった。
卑怯な手を使って朱里を蔑めんとする公家どもをこの場で糾弾したい気持ちでいっぱいだったが、歌会はまだ終わりではなかった。
この後は別堂で各々が詠んだ和歌が披講され、その後は宴席が予定されていた。
この日のために頑張ってきた朱里の努力を無にしたくはない。
帝の御前で騒ぎを起こすようなことになっては、それこそ公家どもの思惑どおりだろう。
(光秀の言うとおり、ここは自重すべきか。全く気に入らんが…今は無事、この場を収めて朱里を休ませてやるのが先だ)
「朱里、辛かろうが暫し堪えよ。和歌の披講が終わるまでだ。その後は退席すればよい」
「は、はい……」