第100章 君に詠む
信長は、離れ離れに席が分たれてしまったことを苦々しく思いながらも、遠目から朱里の様子は気にかけていた。
席に着いてすぐは不安そうな顔をしていたが、ちょうど向かい側に顔見知りの綾姫がいたこともあってか、時折笑顔も見せていた。
さして悩む様子もなく和歌を書き上げた様子には、信長も秘かに安堵し、まずまず事は上手く運んでいるものと思っていたのだが……
(あやつ、何をやって…)
流れてきた盃を取り上げて、そっと口を付けた朱里は一瞬驚いたように表情を強張らせ、なかなか飲み干そうとしない。
盃を手にしたまま困ったように視線を泳がせる様子は、何か予期せぬことが起こっていることを思わせた。
更には周りの公家達の様子も不自然で、こそこそと何事か囁き合っているようだ。
朱里の表情が益々強張りかけたのを見て信長は堪らずその場で立ち上がりかけたが、傍らに控えていた光秀に制止されてしまう。
「くっ…光秀っ…」
「この場は御自重下さい、御館様」
朱里の不自然な様子は、当然ながら光秀も気付いていたが、歌詠みはまだ最後まで終わっておらず、この場で騒ぎを起こすことは避けたかったのだ。
(光秀の言いたいことも分かるが…これ以上朱里を一人にするわけにはいかん)
今まさに一人で困っているであろう朱里を、放っておくことなどできなかった。
信長が歯痒い思いに苛まれながら見守る中、朱里は意を決したように盃の酒を一気に飲み干した。
が、飲み干してすぐに胸元を押さえ、空の盃をぎこちなく小川へ流す朱里の様子に、信長は異変を感じる。
遠目から見ても、頬は紅潮し、呼吸も苦しそうなのだ。
まるで酒に酔ったような………
(あやつ、酔っているのか…?いや、しかし盃の御神酒は女子でも飲めるような薄めの酒だったぞ。急激に酔いが回るようなものではなかったはずだが…)
同じように盃の酒を飲んだ他の出席者の姫たちは平気な顔をしている。
最近は吉法師のために控えているとはいえ、朱里は格別酒に弱いわけではないはずだった。
ならば……
(あの酒、何か入っていたのか…すぐに酔いが回るような悪酒か、或いは……)
『毒』
帝の御前で天下人の妻に毒を盛るような大胆さが、公家どもにあるとは思えないが……万が一ということもある。
別堂へ向かうため立ち上がった信長の足は、真っ直ぐに朱里の元へ向けられた。