第100章 君に詠む
それから数日後、上洛の日が訪れ、私は京の宿所にいた。
「光秀さん、此度の宿所は本能寺じゃなかったんですね?」
お寺の方の案内で寺内へと入りながら、隣を歩く光秀さんに聞いてみる。
信長様の京での宿所は、妙覚寺と本能寺のどちらかになることが多く、私が前回京に来た時は本能寺だったので、この妙覚寺に泊まるのは初めてだった。
「本能寺は…お前にとっては良い思い出ではないだろう、と御館様が案じられたのだ。元どおり再建されているとはいえ、あの夜の辛い記憶を思い出させてはお前が可哀想だ…という御館様の気遣いだ」
「っ…そうだったのですね」
信長様が本能寺で毛利元就の襲撃を受けたあの夜……燃え盛る本能寺から、私は光秀さんと脱出した。
信長様と離れ離れになり、生死不明となった信長様のお帰りを、ただ信じて待つしかなかったあの日々は、身を引き裂かれるように辛かった。
あの日以来、私は京には来ていない。
信長様はたびたび上洛されているが、あの日以来、私を京へ連れて行こうとはなさらなかったのだ。
京には、信長様との愉しい思い出と、辛く悲しく忘れようのない記憶がある。
本能寺は毛利の襲撃で焼け落ちてしまったけれど、事件後すぐに信長様が再建なされたと聞いていた。
元どおり再建された本能寺を、信長様は変わらず宿所とされているのだ。
(今、本能寺を見ても、取り乱すようなことにはならないと思うけど、信長様が私を気遣って今回の宿所を決めて下さったなんて…)
すぐにお礼を言いたかったが、信長様は寺に着くとすぐに住職様のところに行かれてお話をなさっているので、今、私は光秀さんと二人なのだった。
「さて、荷物を整理したら早速、歌詠みの修練だな」
「えっ!まだやるんですか?」
曲水の宴は二日後、それまでは宿所でゆっくりしようと思っていた私は、予想外の光秀さんの鬼の一言にギョッとする。
「今着いたばかりですよ?ちょっとぐらい休ませてくれてもいいんじゃないですか??」
「ほぅ…奥方様は最早修練など不要と?ぶっつけ本番でも公家衆の度肝を抜くような見事な歌が詠めると仰るので?」
「ううっ……」
連日たくさんの歌を詠み、上洛まで和歌三昧の日々を送ってきたのだ。少しは休みたい。
信長様は明日は帝へ御挨拶するために内裏へ参内されるが、私はその間は留守番なのだ。歌の修練なら明日でいい。