第100章 君に詠む
「ええっ…私も一緒に京へ行くのですか??」
その日の夜
湯浴みの後、鏡台の前で髪を梳いていた朱里に『此度の上洛、貴様も同行せよ』と、信長はサラリと告げた。
その事も無げなあっさりとした言い様に、朱里は一瞬聞き間違いかと思い、信長の顔をまじまじと見てしまった。
上洛に向けて連日忙しくなっていく信長を傍で見守っていたが、いよいよその日が近づいてきたこの頃合いに、まさか自分も一緒に来いと言われるなどとは思ってもみなかった。
「それは…急なお話ですね。信長様と一緒に京へ行けるのは嬉しいですけど、乳飲み子の吉法師を置いていくのが心配です。連れて行くわけにはいきませんし…」
吉法師が眠る小さな寝台をチラリと横目で見ながら、悩ましげな溜め息を吐く。
「吉法師には乳母がおる。だいぶ慣れてきているのだろう?秀吉も千鶴もおるし、さほど案ずることはない」
今年に入ってから、吉法師を時折、乳母と傅役に預けるようにして、徐々に母親以外の者に慣れさせるようにしている。
乳飲み子の間ぐらいは愛しい我が子を独占したいという想いはあるが、吉法師は織田家の大事な嫡男であり、然るべき養育をせねばならない。
淋しいが、母の感傷に浸ってばかりもいられなかったのだ。
「はい、皆、よく仕えてくれています。吉法師も近頃は、乳母といる時も泣かずにいい子でいてくれているようですし」
(それは嬉しくもあり、少し淋しくもあるのだけれど……)
「ならば問題はないな」
「そう……ですね」
朱里の微妙な逡巡に気付かず、あっさりと問題ないと言い切ったのは、信長が男親だからということもあるのだろうか…どうも男親は女親ほどには感傷的ではないらしい。
(結華や吉法師と離れるのは淋しいけど…母親がいつまでも子供にべったりでもいけないよね…信長様が『一緒に来い』と言って下さるのだから…京で信長様のお役に立てるように頑張ろう)
前回京へ行った時は完全に物見遊山気分で、初めて見る京の都の華やかさに心躍らせるばかりだった。
妻として、京で過ごされる信長様の身の回りのことなど、今回はしっかりやって、信長様をお支えしたいと思う。