第100章 君に詠む
当初、信長はこの話を断ろうとした。
帝の御命令とはいえ、朱里を公家どもの好奇の目に晒すなど考えられなかったからだ。
第一、信長の正室とはいえ、朱里は御所へ参内を許されるような身分ではない。
そのような異例を敢えて通そうとする朝廷の意向も理解し難かった。
ゆえに、朝廷から文が届いたあの日、信長は自身の上洛は了承し、朱里の同行は辞退する旨を文に認め、使者を帰した。
だが、その後も再三に渡り朱里の同行を求める文が届き、ついには帝から直接文が届くに至って、さすがの信長も承諾せざるをえなかったのだった。
公家どもの思惑は、『天下人の寵愛を受ける女』『天女の如く美しい女』という京童達の噂話に興味を惹かれて、一目見たい、噂の真偽を確かめたい、という好奇心からか、はたまた縁談話を断り続ける信長への当てつけか…
優雅な宮中行事とはいえ、本音を見せぬ公家衆が相手では、些かも気を抜けない。
「御館様、此度の上洛の件、朱里にはもうお伝えになられたのですか?」
悩ましげに眉間に皺を寄せる信長に、秀吉は遠慮がちに尋ねる。
「いや、まだだ。京へ一度しか行ったことがないあやつが、御所へ上がり、宮中行事に出るなど、途方もないことだろうが…」
「っ…御館様、此度のご上洛、何とぞ、この秀吉に供をお命じ下さいっ!公家衆への対応は、光秀の方が長けていることは重々承知しております。ですが俺は…朱里が京で心細い思いをせぬかと心配でならないのです」
「秀吉、案ずるな。朱里には俺がついている。あやつを傷つけるような真似はさせん」
「それは…分かっておりますが、しかし…」
「貴様には城の守りを命じる。今現在、表立って敵対する者はおらぬが、僅かでも隙を見せるわけにはいかん。秀吉、己の役目を弁えよ」
「くっ…御意。出過ぎたことを申しました」
「よい。貴様は過保護過ぎる兄ゆえな。あやつも常日頃、貴様を頼りにしているだろう。出立までの間、何かと気にかけてやってくれ」
「ははっ、承知致しました」
感極まった様子で平伏する秀吉を満足げに見下ろしながらも、信長の心はなかなか晴れなかった。