第100章 君に詠む
暖かく穏やかな日も徐々に増えてきたある日のこと
この月の半ばに上洛を控えている信長は、京の公家衆との様々な交渉事に追われ、連日忙しい日々を送っていた。
此度の上洛は、内裏で行われる『曲水の宴』に出席するよう帝から求められてのものであったが、天下人たる信長がいざ上洛するとなれば、単に宮中行事に参加するだけで済むはずもなく…公家衆からは、ここぞとばかりに数多の陳情が送られてきていた。
それから、陳情と同じぐらいの数の側室を推挙する話も……
「公家どもめ、好き勝手言ってきおって…一体、己を何様だと思っているのか…」
読み終わったばかりの文を秀吉の方へと乱暴に押しやりながら、信長は苛立ちを隠そうともしない。
秀吉は信長から押し付けられた文にチラリと視線をやると、内容を見て悩ましげに眉を顰める。
それは、またも娘を側室にと求める公家からの文だった。
(やれやれ…公家衆も懲りないな。御館様が側室を迎える気が一切ないことは、先日の九条家との一件で明白だというのに、相も変わらず縁談話を持ってくるとはな…)
上洛を控え、ただでさえ忙しいところに連日届く公家衆からの文に今、信長の機嫌はすこぶる悪い。
秀吉は、信長が上洛を取り止めると言い出さぬかと、内心ヒヤヒヤしていたのだ。
(宮中行事になど興味がない御館様だ。帝からの要請でなけば上洛はなさりたくないだろう。加えて此度は……)
「………あの、御館様。その…此度のご上洛ですが、やはり朱里を連れて行かれるのですか?」
恐る恐る遠慮がちに問う秀吉を、信長は不機嫌さを隠すでもなくギロリと睨み付ける。
「仕方があるまい。帝の御命令だ。背くわけにはいかん」
嫌々吐き捨てるように言いながら、悩ましげにキュッと眉を寄せる。
その表情は苦渋に満ちていた。
此度の信長の上洛
朝廷からは、『正室を伴い、曲水の宴に出席せよ』と言われていた。
要するに、朱里を御所に連れて行き、その姿を公家どもの前で披露しろ、とそういうことだ。
頑なに側室も持とうとせず、信長が唯一寵愛する正室。
巷では『天女のようだ』との噂も名高いその女を深く愛するがゆえに、信長は正室を城の奥へ隠して滅多に人目に晒さない、と嘘か誠か京でも噂になっているらしい。
そんな噂話が、どうやら帝や公家衆の興味を引いてしまったらしい。