第98章 翠緑の恋情
簪を手にしたまま、感極まって言葉が出てこない私を見て、信長様は口元に柔らかな微笑を浮かべる。
起き上がって向かい合わせに座ると、私に向かって手を差し出す。
「貸せ、つけてやる」
「っ…あ、でも…起きたばかりで私、髪もクシャクシャだし…」
頬を微かに赤く染めて、乱れた髪を慌てて手で撫で付ける仕草をする朱里が、信長は可愛くて仕方がない。
今すぐに押し倒して、もっと乱してしまいたいとさえ思う。
(こやつは本当に‥俺を惑わせる天才だな。朱里の言動一つ一つが新鮮で、いつだって俺を飽きさせることがない。どんな仕草にも心惹かれる)
「ふっ…つまらぬことを……だが憂い顔にその簪は似合わんな」
「え、あっ…ひゃあっ…!?」
いきなり立ち上がった信長様は寝台を下りて、私を抱き上げた。
そのままスタスタと歩いて部屋の角の鏡台の前まで行くと、私を鏡の前に座らせる。
「あ、あの、何を…?」
「髪を梳いてやる。じっとしておれ」
「えっ、ええぇっ…そ、そんな…」
信長様に髪を梳いてもらうなんて畏れ多い。
慌てる私にお構いなしに、信長様はもう櫛を手にしていた。
「っ、あっ……」
そっと肩に手を置かれ、優しい手つきで髪を後ろに流される。
それだけで、ときめきと緊張で、ふるりと身体が震えてしまった。
「おい、そんなに固くなるな。かえってやりにくい」
頭の上から聞こえてくる信長様の声が苦笑いを含んでいる。
「だ、だって…殿方に髪を梳いてもらうなんて初めてで…」
「当たり前だ。俺以外の男が貴様に触れていいわけがなかろう。初めてでなければ、仕置きをしてやるところだったわ」
(ひっ……)
甘かった雰囲気が、途端に緊張感を漂わせてしまい、違う意味でドキドキと落ち着かなくなる。
「朱里……」
優しい声音で名を呼ばれ、信長様の手が髪にそっと触れる。
すぅーっと櫛が髪の流れにそって通っていく感触を、そっと目を閉じて感じる。
「んっ……」
生え際から髪の先まで、ゆっくり何度も櫛が通される。
朝日が射し込む部屋の中は静かで、櫛を動かす信長様の衣擦れの音しか聞こえない。
(ん…気持ちいい。自分でしても何とも感じないのに、信長様に髪を梳いてもらうのがこんなに気持ちがいいなんて…)