第97章 愛とは奪うもの勿れ
吉法師を守るようにぎゅっと抱えて信長から距離を取るように後ずさる朱里の顔は、混乱と不信に満ちていた。
吉法師の激しく泣く声が湯殿中に響き渡り、胸の内をザワザワと不安が掻き立てられていく。
「朱里っ……」
「いやっ!触らないでっ…」
呼びかけて、触れようともう一度手を伸ばす信長に対して、朱里は今度ははっきりと拒絶の意を表す。
今、この時、信長に触れられることがひどく汚れたもののように思えてしまい、そんな風に思ってしまう自分自身に対して、ひどく混乱していた。
(私、今、きっと酷い顔してる……)
この場に…信長の前にいたくなかった。
痛いぐらいにぎゅっと唇を噛み、泣き叫ぶ吉法師を更に強く抱き締めて、ジリジリと後ずさる。
「っ…朱里っ、待て!話を……」
綾姫に抱き着かれたままの格好で呼び止める信長を悲しげに見つめてから、くるりと背を向けて…足早に湯殿を飛び出した。
(どうして…どうしてあんなことに…)
混乱する頭は思考が定まらず、濡れた足先を拭く余裕もなく、そのまま廊下を進む。
泣いている吉法師をあやしてやる余裕すらなくなって、派手な泣き声を上げさせたまま険しい表情で歩く私を、すれ違う侍女達が何事かと息を呑んで見るのに気付いたけれど……もはや己が身を繕えるはずもなかった。
どうにか自室へと辿り着くと、そのままその場に座り込んでしまった。
「まぁ、姫様!どうなさったのです!?」
呆然と座り込む朱里と、母の腕の中で激しく泣く吉法師を見て、千代が慌てて駆け寄る。
「姫様っ、吉法師様はどうされて…ま、まぁ姫様っ、泣いておられるのですか?一体、何があったのです??」
「っ…千代っ、私…どうしたら…うっ…」
頬を伝う冷たい雫に、自分でも訳が分からなくなっていた。
(私…泣いてるの…?どうして…)
流れ落ちる涙が自分のものとは思えぬほど、先程見た光景がどこか夢の中の出来事のようだった。
信長に愛されているのは自分だけ、信長に触れていいのは自分だけだと…そう思っていた私は、なんと傲慢だったのだろう。
『誰も傷つけたくない』などと口では綺麗事を言いながら、自分以外の女が愛しい人の肌に触れていたあの瞬間が許せなかった……居ても立っても居られないぐらいに。