第97章 愛とは奪うもの勿れ
「っ………」
パシャンッと湯が跳ねる音と共に己の腕の中に飛び込んできた女の身体を、思わず抱き止める。
濡れた襦袢越しに、柔らかな女の肌の感触を感じる。
咄嗟に離れようと身を引く信長に、綾は離れまいと必死に縋り付いた。
「信長様っ…好きですっ…貴方が好きっ。京で初めてお会いした時から、ずっとお慕いしておりました。どうか…私をお傍に置いて下さいませっ…」
「なっ………」
胸元に縋り付いたまま、熱に浮かされたような蕩けた瞳で見上げてくる綾姫の身体を、信長は咄嗟に押し戻すことができなかった。
足元から立ち上る湯気の熱さのせいか、頭がくらくらする。
離れねばならない…そう思うのに、どうしたことか、すぐには身体が動かなかった。
その時……入口の引き戸を引く音がして………
「………信長様?朱里です。入りますね」
控えめに呼びかける朱里の声が聞こえて、ハッと我に返って制止しようとしたが遅かった。
「………信長様?」
湯煙が立ち込める中、湯殿の中へと入ってきた朱里はその腕に吉法師を抱いていた。
腕の中の吉法師は、機嫌良さげに手足をバタバタと動かしている。
朱里はいつものように、信長に吉法師の沐浴をお願いすべく、湯浴み中の信長のもとへと連れてきたところだった。
立ち上る湯気のせいで視界が悪い中、足を滑らせぬようにゆっくりと浴槽の方へと近付いていくと、湯煙の間から人影が見える。
「信長様…っ…えっ…綾姫…様?」
信長が一人で入っているものと思っていた湯船には、もう一つ人影があり…それが綾姫だと気が付いた朱里は息が止まりそうなぐらい驚いた。
(やっ…どうして綾姫様が…っ…どうして抱き合って……)
朱里の目には、信長の逞しい裸が露わになり、二人が親密に身体を寄せ合っているようにしか見えなかった。
「信長様っ…こ、これはどういう…」
「ふ、ふぇ…うぇーん…」
動揺して思わず吉法師を抱く腕に力が篭ってしまい、むずがった吉法師が泣き出してしまった。
どうしていいか分からず、吉法師を抱いたまま立ち竦む朱里を見た信長は、心の内で激しく舌打ちする。
「朱里、落ち着け。吉法師をこちらに寄越せ。泣き止ませねば…」
「っ…いやっ!」
吉法師に向かって手を伸ばした信長を、朱里は激しく拒絶する。
何故だか分からないが、吉法師に触れられたくはなかった。