第97章 愛とは奪うもの勿れ
「………綾、姫…?」
頭の上の方で困惑したような声がして、綾は自分が信長の腕の中に捕われていることに気付く。
湯船の中で立ち上がった信長の濡れた肌の感触が、襦袢越しに伝わって、一気に羞恥心が湧き上がる。
(嘘っ…私っ…信長様に抱き締められてる…?)
状況を飲み込み、嬉しくて顔が綻びかけた次の瞬間、ガバッと勢いよく身体が離された。
「あっ……」
「っ…貴様っ、何故このようなところにおる?」
信長は、困惑を隠し切れないように苦々しく言う。
湯殿に入ってきた何者かの気配に、刺客かと警戒して捕えてみれば……
「あ、あの…私、湯浴みのお世話を…」
目のやり場に困っているのか、俯きがちに小さな声で言う綾姫の姿に、何とも言えない複雑な心持ちになる。
(全く…何を考えておるのだ。男の湯浴みの世話などと…生娘のくせに大胆なことをする)
信長は心の中でそっとため息を吐きながらも、意地悪そうに言う。
「これはこれは…摂政殿の姫君ともあろう御方が湯女のような真似をなさるとは……」
湯女(ゆな)とは、風呂屋や湯治場で浴客の世話をする女のことであり、客の身体を洗うのは勿論のこと、入浴後の酒の相手や遊戯もこなし、果ては夜の相手も行っていた。
遊女が公然と春を売っているのに対し、湯女は表向きは風呂屋の下女であるが、男が風呂屋を訪れる目的の多くが湯女の夜伽であることは衆知の事実であった。
「ゆ、湯女などと、そのような…」
男の経験がない割に湯女の真の意味は知っていたのだろうか…ぱっと顔を赤らめて、ますます下を向いてしまった。
(あまり下を向かれても困るんだがな…)
湯船の中に素っ裸で立っていた信長は、当然のことだが、前を隠しているわけでもない。
湯殿の中は湯煙が立ち込めていて視界が悪いとはいえ、素っ裸の男と襦袢一枚の女が二人きり。
(この状況は些かよろしくないな。この姫に対して思うところは全くないが……このようなところを誰かに見られて、あらぬ誤解をされても面倒だ)
「世話など不要だ。下がられよ」
「っ…いえっ、そういうわけには参りませんわ!…っ、信長様!」
恥じらって俯いていた顔をキッと上げると、躊躇うことなく湯船へ入り……信長の方へ身体を擦り寄せた。