第97章 愛とは奪うもの勿れ
夜の帳が下り、空に星が瞬き始めた頃、綾は一人、緊張した面持ちで廊下を進んでいた。
緊張で微かに震える足を進める先は、湯殿だった。
ちょうど夕餉が済んだ後のこの時間、城主専用の湯殿では信長が湯を使っていると聞いていた。
信長との距離を縮められぬことに痺れを切らした綾は、ついに思い詰めて湯浴み中の信長へ、その身を捧げようと思ったのだった。
嫁入り前の娘が殿方の湯浴みに侍らんとするなど、はしたない真似をと自分自身に恥入りながらも、こうでもしないと信長の傍に行くこともできないと思い悩んだ末の行動だった。
誰かに見咎められはせぬかと不安に揺れる胸の鼓動を何とか抑えて湯殿の入り口に着くと、周りの様子を確認して、そっと中へと滑り込む。
通常なら湯浴みの世話をする侍女が中に控えているはずだが、今その姿はなく、湯殿の外にも護衛の者はいなかった。
(信長様はいつもお一人で湯浴みをなさると聞いていたけど、本当みたいね。よかった…)
ホッと安堵の息を吐いた時、湯殿の中からパシャリと湯の跳ねる音がした。
(っ…あっ……)
湯の音に人の気配を感じて、急に緊張が極限まで達してしまったかのように身体に震えが走る。
ここまで来て怖気づくなど情けない…自分にそう言い聞かせて唇をぎゅっと引き結ぶと、緊張に震える手で着物を脱ぎ、襦袢姿になった。
「っ…信長様……」
引き戸を開けると、目の前には白い湯煙が立ち込めていた。
足音を立てぬよう、手探りで濡れた洗い場に足を踏み入れる。
湿気が身体に纏わりつくように、襦袢がしっとりと肌に張り付いていく。
「………誰だ?」
低く落ち着いた詰問の声に、綾の足はピタリと止まった。
温かく柔らかな湯殿の空気が一気に冷えるかのような、威圧感たっぷりの声に緊張が走る。
「っ……信長様っ…」
極度の緊張のせいで、ひどく掠れた声しか出なかった。
パシャっと湯が揺れる音がして、湯煙の向こうで人影がゆらりと蠢く。
「っ…あっ……」
あっと思った時にはもう、濡れた手に手首を掴まれて……身体ごと引き寄せられていた。