第97章 愛とは奪うもの勿れ
信長に側室が薦められるたび、朱里は辛そうだった。表立っては何も言わず、感情を押し殺すようにしていたようで、見ているこちらも同じように辛かった。
長らく世継ぎに恵まれなかったこともあって、側室を薦める声にも強くは異を唱えられないようで、朱里はいつも遠慮がちだった。
信長がただ一人愛する正室。
堂々として、側室なんてきっぱり突っ撥ねてやればいい…そう思わないでもなかったが、朱里は信長にも周りの者にも歯痒いぐらいに気を遣う子だった。
(吉法師が産まれてようやく朱里も穏やかな時間が過ごせるようになったっていうのに…なんで今また側室なんて…)
公家の姫なんて、信長は見向きもしないに違いない。
あの人が見てるのは朱里だけ。朱里を傷付けるようなことはなさらないはずだ。
が、そう分かっていても、朱里の心情を思うと胸が痛かった。
「朝廷が容認した縁組の申し出とはいえ、信長様が側室を受け入れるはずはないと思いますけど…それでも、朱里には辛い時間ですね」
「いや、そうでもなさそうだぞ。御館様は、ここぞとばかりに朱里を溺愛なさっているようだ。それこそ、先程のように目のやり場に困るぐらいに、な。小娘は戸惑っているようだが…御館様にはお考えがあるようだ」
可笑しそうに口元をニヤリと緩める光秀を、家康は何とも言えない表情で見る。
「信長様の朱里への溺愛っぷりは、もう見慣れたものだから今更驚きませんけど。俺は…あの子が悲しまないで済むなら、それでいいです」
「おや、お前も随分と素直にものを言うようになったものだ」
「別に…あの子のこと気にかけてるのは、光秀さん、あんたも同じでしょ」
側室候補の姫が現れてから、皆が秘かに朱里を心配していた。
信長の奥の問題に口を出すわけにはいかないから、表立って意見することはなかったが、いざとなったら皆、朱里を守るつもりでいるのだ。
(あの子は皆に愛されてる。俺だってあの子の笑顔を守るためなら何だってしてやる)
「さて、では俺は小娘のために俺ができることをしよう」
いつものように雑に朝餉を終わらせた光秀は、もう広間を出て行こうとしている。
「あれっ、光秀さん、もう行っちゃうんですか?」
目ざとく気付いて声をかける朱里に後ろ手に手を振って出ていきながら、光秀は朱里のふにゃりとした笑顔を想像して、そっと口元を緩めるのだった。