第97章 愛とは奪うもの勿れ
翌日、朱里は九条家の姫に挨拶をするべく、客間へと向かっていた。
昨夜、信長から『関わるな』と強く言われた手前、躊躇う気持ちもあったが、やはり正室として女子の客人に声も掛けないのはどうかと思い悩み、昼を過ぎてから恐る恐るやって来たのだった。
「失礼致します、綾姫様」
声を掛けて客間へ入ると、そこには華やかな色柄の小袿を身に纏った綺麗な人が扇を片手に寛いでいるところだった。
(わぁ…お人形さんみたい。公家のお姫様ってこんな感じなんだ)
武家の女子の装いとはまた違う京風の上品な装いに目を奪われる。
ところが、人形のように可愛らしいと思った印象は、綾姫の次の一言で呆気なく打ち砕かれた。
「あら、貴女が信長様の奥方様かしら?随分と遅いご挨拶ね」
可愛らしい姿からは想像もしていなかった毒舌に、朱里が呆気に取られているうちに綾姫はするすると歩み寄り、朱里を見下ろしていた。
「あ…あの、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。朱里と申します」
自分よりも年若ではあるが、相手は摂政様の姫君、立場は綾姫の方が上だと即座に理解した朱里は、素直に頭を下げる。
随分と好戦的な雰囲気の姫だな、とは思いながら……
「ご滞在中お困りのことなどございましたら、遠慮なく仰って下さいませ。武家の城にいらっしゃるのは初めてですか?よろしければ、城内もご案内させていただきますよ」
「ありがとう。でも、それは貴女じゃなくて信長様にお願いするわ。私、信長様とは初対面じゃないの」
「えっ?あの…それは…」
「京で…ね。同じ宿所に泊まった仲なのよ」
「………………」
勝ち誇ったように艶然と微笑む綾姫の顔を、朱里は無言でぼんやりと見つめてしまう。
その反応の薄さに苛立ったように、綾姫は公家の姫君らしくもなく声を荒げた。
「ちょっと、貴女!私の話、聞いてたの?」
「あ、はい…ええっと、信長様が京でお世話になったのですね。それは、ありがとうございます」
「はぁ!?」
(何なの、この人…信長様の寵愛を一身に受ける正室だっていうからどんなに偉そうな女かと思ってたのに…拍子抜けしちゃう)
綾姫が向ける悪意に満ちた視線を気にする素振りも見せず、朱里はニッコリと屈託のない笑みを向ける。
朱里にそんな風に美しい顔で微笑まれて、嫌味の一つも言ってやろうと思っていた気持ちはぷすぷすと燻ってしまう。