第97章 愛とは奪うもの勿れ
「……信長様?信長様、どうかなさいましたか?」
心配そうに呼びかける朱里の声に、ハッとして顔を上げる。
手にしていた盃は空で、今にも手の内から滑り落ちそうになっていた。
「っ…すまん、少し考え事をしていた」
不安そうな朱里を安心させるように口元を緩めながら、空の盃を差し出す。
「何か…ご心配なことがおありですか?」
信長の盃にそっと酒を注ぎながら、その顔色を窺うように小首を傾げる。
その仕草があまりにも可愛くて、信長の口元は緩むばかりだった。
「いや、大したことではない。貴様が心配するようなことは、何もない」
何となく自分に言い聞かせるような口調で、グイッと一気に酒を呷る信長を見て、朱里は益々心配になる。
(やっぱり何かあったのかな…今日は急遽、京から九条様がお見えになって、それからずっとお城の中が慌ただしかった。私は謁見には出なくていいと言われたからお会いすることは叶わなかったけど…謁見の場で何かよくないことがあったのかしら…)
「……朱里」
「っ…あっ、はい…」
急に名を呼ばれて慌てて信長様を見ると、憂いを帯びた深紅の瞳が私を捕らえる。
「貴様に言っておくことがある。九条殿は明日には京へお帰りになるが、共に参られた姫はしばらくこの城に滞在することになった」
「まぁ!それでは姫様のお世話は私が…」
「いや、その必要はない」
「えっ?でも…」
見るからに不機嫌そうな様子になった信長に、朱里は戸惑いを隠せない。
京からの大事なお客様、ましてや公家の姫様のお相手をするのは、正室の務めではないかと思ったのだが…何か問題でもあるのだろうか?
「貴様はなるべく関わらぬようにしろ。挨拶も…しなくていい」
「ええっ…それはさすがにダメですよ!信長様の妻として、そんな礼儀知らずなことはできません!」
「うむっ……」
「信長様、最近、変ですよ?今年の年始の会だって、ほとんど出なくていいって仰ったり、私が家臣の方に声をかけるのも邪魔したりするじゃないですかっ!もぅ、何なんですかっ?」
「っ………」
急に不満を捲し立て始めた朱里に、信長はたじろぐ。
益々色気が増した朱里を他の男の目に晒したくなくて、さり気なく公の場から遠ざけていたのが、当の本人に不審に思われていたとは…俺としたことが不覚だった。