第96章 年越し
背後から私の身体をぎゅっと抱き締めた信長様は、いきなり手綱を強く引き、それと同時に鬼葦毛の腹をトンっと蹴った。
身体がグッと後ろに引き付けられる感触に、思わず悲鳴を上げた私を露ほども気にすることなく、鬼葦毛は一気に速度を上げて奔り出した。
「や、いやっ…嘘っ…待って…の、信長様っ?」
揺れる馬上の不安定さが恐ろしくて、馬体を跨ぐ太腿にぎゅっと力を入れる。上半身を信長様に支えられているとはいえ、激しい揺れに身体が跳ね上がる。
自分でも馬を走らせることはあるが、こんなに早く駆けることはない。信長様の早駆けは何度経験しても慣れず、馬上で身体を硬くして耐える私の顔は一瞬で強張ってしまう。
(やっ…怖いっ…)
「……朱里、顔を上げよ」
「うぅ…無理っ、いきなりこんな…っひゃっ…うっ…」
「くくっ…貴様、馬には慣れているだろう?」
「そ、そうですけど…鬼葦毛は別格ですよ。信長様と共に戦場を駆けられるほどの馬ですもの。ひやっ…もぅ…止めて、信長様っ!」
「ふっ…そうだ、此奴は特別なのだ。此奴の代わりになる馬などおらん」
迷いのない足取りで真っ直ぐに駆ける鬼葦毛を、信長様は愛おしげに見つめる。
(鬼葦毛にとっても信長様にとっても、お互いがかけがえのない特別な存在なんだ。お互いに信頼し合って、委ね合える関係。そんな関係は少し妬けるけど、素敵だと思う)
揺れる馬上で思い切って顔を上げると、ふわりと髪が風に煽られる。冷たい風が頬を叩くのも気にならないほど、眼前に広がる光景に目を奪われた。
「うわぁ…」
遠くに見える山々の稜線には白く雪が積もっていて、陽の光を浴びてキラキラと銀色に輝いていた。
数日前に降った雪は地上ではすぐに溶けてしまったが、気温が低い山頂では未だ残っているようだった。
「信長様っ、見て下さい。山にはまだ雪が残ってますよ」
「あぁ、寒い日が続いているからな。大坂は比較的暖かい方だが、北の領国ではひと冬ずっと雪に閉ざされるということも珍しくない」
「そうなのですね。私は小田原と安土、大坂でしか過ごしたことがございませんから…この日ノ本のことも、まだ知らぬことばかりです」
いつの間にか、鬼葦毛はゆっくりとした歩みに戻っていて、信長様は私の肩口に顔を寄せる。
「朱里、貴様……」