第93章 緋色の恋情
「朱里、着いたぞ」
山道を行くこと数刻、信長様の声とともに塗輿が静かに止められる。
戸がゆっくり開かれると同時に、ドドドドォという大きな水音が耳に飛び込んできた。
山奥特有のひんやりとした空気を肌に感じ、皮膚がキュッと引き締まる心地がする。
「朱里、ん……」
さり気なくそっと差し出された大きな手。
輿の中から見上げると目が合って、信長様がふわりと微笑む。
「ありがとうございます、信長様」
眠っている吉法師を片腕に抱いて、信長様の手を取ると、すぐにきゅっと握ってくれる。
固く骨張った武将の手。でも暖かくて優しい。
いつでもふわりと柔らかく包み込んでくれる信長様の手が、私は大好きだった。
「っ…わぁ……」
信長様に手を引かれ輿を降りた私の目の前には、見上げるばかりに高い岩肌を真っ白い水飛沫をあげて流れ落ちる荘厳な滝があった。
目の前のゴツゴツした岩場から、幾本かの水が白糸を下す様に降りる滝の姿は神々しくてこの上なく美しい。
滝壺に落下した水は、純白な水けむりを巻き上げて薄く靄がかかったようになり、辺り一面が幻想的な雰囲気を醸し出していた。
白糸のような滝の周りには、赤々と葉を色づかせた紅葉の木が枝を張っていて、その赤と白の対比の妙に息を飲む。
「これは…なんと見事な…この世のものとは思えぬ美しさですね」
ほぅ…と感嘆の溜め息を吐く朱里を、信長は満足そうに見つめていた。
頬を紅潮させ、目の前に広がる風景にうっとりと見惚れている朱里の顔こそ、信長は美しいと思った。
城下の華やかな賑わいも楽しいが、山里深く分け入れば、こうして手付かずの自然の美しさに触れられる。
普段、城の中で過ごすことの多い朱里は、このような自然の木々の美しさに触れることも少ない。
大坂城の庭は、朱里が季節の移り変わりを楽しめるようにと信長が自ら考えて作らせたものだが、やはり自然の織りなす造形美には敵わない。
もっと城の外へ自由に連れて行ってやりたいとは思うが、それも思うようには叶わないでいる。
朱里の笑顔を見ることが、今や信長にとっては何よりの幸福であり、この笑顔を守るためならばどのような無理も厭わないだろう。