第92章 帯解き
「信長様がそんなことを…」
初めて聞く話だった。
今年は梅雨時の長雨で、領地の彼方此方で土砂崩れや鉄砲水などの被害が多数出て、信長様自ら現地に赴き、精力的に復旧の指揮を取っておられたことを思い出す。
民達の暮らしが豊かに保たれるようにと、日々心を砕かれている信長様らしい。
(懐妊中のこの一年は信長様の視察にも同行できなかったから、こうして信長様を慕う人の話を直に聞けるのは嬉しいな)
思い切って来てよかった。
知らなかった信長様の姿を垣間見れて、早く逢いたいと愛しさが募っていく。
おばあさんにお礼を言って茶屋を出ると、太陽はもう西に傾きつつあった。
秋の陽は沈むのが早い。
モタモタしていると陽が沈み、あっという間に暗くなってしまうのだ。
(少しゆっくりし過ぎちゃったかな…急ごう、堺へはもうすぐだから、暗くなるまでに商館へ着かないと……)
再び馬の手綱を握り、馬上で気合いを入れ直すと、堺へ向けて真っ直ぐに歩み始めた。
商館に着いたのは陽が完全に落ちる前で、空は綺麗な茜色に染まっていた。
(着いたっ…)
商館の入口で馬を降りた私は、一人で旅をして堺まで来られたという実感をひしひしと感じていた。
と同時に、信長様にどんな顔で会ったらいいんだろう、怒られたらどうしよう、という不安が今更ながらにじわじわと湧き上がってくる。
(信長様に会ったら何て言おう……)
「奥方様っ!?これは…一体どういうことで…お一人でございますかっ??」
入口で門番の方に取り次ぎをお願いして待っていると、織田家の者である商館長が息を切らして飛び出してくる。
「何と…供も付けずにお一人でここまで!?」
入口に一人で立つ私を見て絶句する商館長に、思わず身が縮こまる思いがする。
「ご、ごめんなさい…あの、信長様は…?」
「えっ、あぁ…御館様は、今宵は納屋衆との宴席がございまして、今井様の別邸の方へ行かれています。
いや、しかし、まさか奥方様がお一人で……はっ、すぐに御館様にこのことをお伝えしなくてはっ!」
オロオロと焦る様子に申し訳なくなってしまい、慌てて引き止める。
「あのっ、信長様には知らせなくて大丈夫です。私、お帰りになるまで待っていますから」
「ええっ、いや、でも…」
「お仕事のお邪魔をしたくはないのです。お叱りは私が受けますから…」