第92章 帯解き
堺へと続く街道をゆっくりと馬を歩ませていた朱里は、少しの疲れを感じて、ふぅっと小さく息を吐く。
馬に乗るのは何ヶ月ぶりだろう…懐妊が分かってから今日まで遠出などしたことがなかった身に、久しぶりの乗馬は思った以上に堪えた。
産後ひと月、身体は元に戻っているとは思うのだが、屋外で日中の陽射しを長く浴びるのは、やはり疲れるようだ。
(もう間もなく堺の町が見えてくるはずだけど…少し休憩しよう)
前方に、茶屋の暖簾が風に揺れているのが見えて急速に喉の渇きを覚えた私は、休息を取ることにした。
「こんにちは!あの、お茶とお団子を下さい!」
出迎えてくれた茶屋のおばあさんに注文をする。
「はいはい、お茶とお団子ね。おや、お一人かね?馬に乗りなさるのかい?お武家の姫様は勇ましいねぇ」
「えっ?えへへ…」
思わぬところで褒められて(?)何だか照れくさい気分になる。
高貴な姫だと思われると色々と面倒なので、今日の私は質素で地味な小袖と馬乗り袴を身に付けた中流武家の娘の格好をしていた。
「はぁ…」
温かいお茶と甘いお団子は、久しぶりの乗馬による緊張で強張っていた身体に沁みわたる。
(堺はもうすぐだけど、休んでよかった。でも、こんな場所に茶屋なんてあったかな…)
よく見ると店構えはまだ新しいようだし、以前に信長様と一緒に堺へ行った時にはなかった気がする。
「おばあさん、このお店は長いんですか?」
客は私だけだったこともあり、思い切って話かけてみる。
「いえいえ、ここはこの夏から店を開いたとこでしてね。以前は街道沿いではなくて、もう少し奥の方で長いこと茶屋をしてたんだけどね、大雨で土砂崩れが起きて店が潰れてしまったんじゃ」
「まぁ…」
「もう年じゃし、店は再開できんと諦めておったんじゃが…あの織田信長様がこの店を建てて下さったんじゃ」
「えっ?ええっ?うっ、げほっ…」
思わぬところで信長様の名を聞いて、びっくりして茶を吹き出しそうになった。
「おやおや、大丈夫かね?娘さんも信長様の名前ぐらいは知っておるじゃろ?世間では、鬼じゃ魔王じゃと恐れられておられるが、あの御方ほど慈悲深いお人はおらん。
店を元どおり建てて下さって、堺へ行かれる折には行き帰り必ず立ち寄って下さる。
『俺の休憩場所がなくならぬよう、長生きしろ』と言うて下さってのう…」