第92章 帯解き
朱里が堺へ向けて馬を歩ませている頃、異国との商談を無事に終えた信長は商館の一室で休憩を取っていた。
休憩中とはいえ、信長へ目通りを願う文が商人達からひっきりなしに届いており、ゆっくり気を休める時間もない。
片手に文を持ち、目を通しながら、もう片方の手に茶の入った天目茶碗を持ってひと息に飲み干す信長を、今井宗久は呆気に取られたように見る。
「いやはや、ゆっくり茶を味わう時間も惜しまれるとは…随分とお忙しいご様子ですな」
「茶の湯を極めたその方にすれば、些か不作法が過ぎるか?俺は形には拘らん。つまるところ、茶は美味ければ良い」
不敵に笑いながら言う信長を見て、宗久は口元に苦笑いを浮かべる。
(やはり常識を超えた御方よ。だが、それがまたこの方の、何にも代え難い魅力でもあるのだが…)
信長の、常識に囚われぬ考え方や新しきものを柔軟に受け入れる姿勢は、宗久が交流を持ってきたどの大名とも違っていて、話をするたびに興味を惹かれた。
それゆえに、信長が堺を直轄地にと欲した時にいち早く応じ、他の納屋衆の説得に当たったのは、宗久だった。
(以来、こうして親しく交流を持たせていただいているが……誠に面白き御方よ)
「商談も無事まとまったそうで何よりでございました。今宵は我が別邸で一席設けますので、ゆるりとお寛ぎ下さいませ。納屋衆の面々も信長様にお会いするのを楽しみにしておりますよ。そうそう、珍しい地酒が手に入りましたので今宵は是非…」
「……………」
「信長様?」
「宗久、悪いが今宵の宴で俺は酒は飲まんぞ」
「………は?」
「理由は聞くな」
「は、はぁ…」
不機嫌そうに顔を顰める信長を見てしまうと、言われずとも理由など聞けるはずもなく…黙って頷くしかなかった。
宴席で酒を飲まぬとは…一体、どういう了見なのだろうか…。
宴席で酒を飲まぬ信長など見たことはなく、何かの冗談かと信長の表情をこっそり窺うが、どうやら冗談でもなさそうである。
(何をお考えやら、さっぱり分からん…)