第92章 帯解き
その信長が、酒の席を逡巡している……
(これは珍しい。全くもって御館様らしくない)
光秀は意外なものを見るかのように信長を見る。
「酒宴では、何か不都合がございますか?」
「……いや、構わん。それでよい」
一瞬の躊躇いの後、信長は常と変わらぬ威厳ある態度で鷹揚に頷いてみせる。
(そういえば、御館様は近頃、酒を召されていないような…)
帯解きの儀の祝いの席以降、宴は催されていなかったが、探索の報告の為に夜半に天主へ行っても、信長が酒を飲んでいる姿は見なかった。
久しぶりに、眠れぬ独り寝の夜を過ごされている様子だったが、朱里と夫婦になられる前の御館様なら、酒で気を紛らわせるようなこともなさっていたというのに……
(朱里がお傍におらぬ故、一人で酒を飲む気にもなられぬのかと思っていたが……よもや、酒を断たれているのか…?)
酒を飲むのを控えられているのだとしたら、酒宴に難色を示されたのも理解できるが、その理由は…何なのだろう。
さすがの光秀も、酒を控える信長の心の内は計りかね、それ以上聞くこともできなかったのだった。
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その日の夜、大坂城では……
「はぁ…(眠れない…)」
自室の褥の上で、右に左にと寝返りを打ち、朱里は眠れぬ夜を過ごしていた。
傍らの布団では吉法師がすぅすぅと可愛らしい寝息を立てて眠っている。
そのあどけない寝顔をそっと覗き込み、何とも言えない可愛らしさに口元が自然と緩む。
(ふふ…寝顔、可愛いな。まだ赤ちゃんだから分からないけど…吉法師も信長様に似てくるのかな)
「信長様……」
城内に信長がいない、それだけでこんなにも寂しさが募るなんて思わなかった。
(顔を合わせなくても、一緒に眠れなくても、お城の中に信長様がいらっしゃる間は、寂しさなんて感じなかったというのに。
今はこんなにも胸が苦しいなんて)
今の気持ちをちゃんと伝えて、大人げなく拗ねて避けてしまったことを謝ろうと思っていた。
(それなのに…貴方はいない。今すぐ、逢いたいのに……)
目頭がじわりと熱くなり、堪らずに褥に顔を埋める。
堪えきれずに零れ落ちた雫が敷布を濡らし、じんわりと染みていくのを、褥の上で小さく丸まりながらぼんやりと見た。