第92章 帯解き
「あ、あのさ、朱里…御館様は別に、お前に内緒で出かけられたわけじゃないぞ?ご出立も朝早かったからな、伝える時間がなかっただけだ。だから、あんまり気にするなよ?」
秀吉さんの気遣いが、かえって辛い。
私がぐずぐずしている間に、またすれ違ってしまったのかと思うと自分の優柔不断さが情けなくて項垂れてしまう。
「うん、ありがとう、秀吉さん。お帰りのご予定が分かったら、また教えてね。じゃあ、私はこれで……」
「お、おい、朱里っ…?」
「おーい、朝メシは?食っていかないのかぁ?」
「はぁ…抜け殻みたいになっちゃって…困った子」
「朱里様はどうなさったのでしょう??お顔の色が優れぬようですが……」
武将達が口々に気遣う声をあげるのを背後に聞きながらも、私は構わずに広間を出た。
今、皆に優しい言葉をかけられたら、みっともなく愚痴ってしまいそうだった。
(信長様…ごめんなさい。素直になれなくて…)
自分から避けていたのに、逢えないとこんなに淋しくなるなんて…身勝手な自分の心を自覚して戸惑いを隠せなかった。
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「御館様、お疲れ様でした」
その日の夕刻、今日の予定を終えた信長は、商館へと引き上げていた。朝早い時間に堺に到着した後は、異国との商談や納屋衆との会談など精力的に予定をこなした。
それでも、信長自らが堺に来るとなると謁見を希望する者も多く、やはり今日一日では終わらなかったのだ。
「光秀、明日は取引の細かな条件を詰める。準備をしておけ」
宿所である商館の部屋へ入ると、信長は疲れも見せずに次々と指示を出していく。
異国との取引は常に目新しく興味が尽きない。
それ故に、忙しい中でも度々堺には出向くようにしていた。
「畏まりました。明日の夜は、納屋衆の面々との宴席の予定もございますれば、取引が速やかに締結できるよう手配致しましょう」
「酒宴か……」
「如何なさいました?何か…?」
宴席と聞いて僅かに顔を曇らせる信長を、光秀は不思議そうに見る。
納屋衆との酒の席は、良い情報交換の場であり、御館様も堺へ参られた時には積極的に応じておられた。
身分は商人であっても、御館様が彼らを重視されていることは側から見ても明らかで、酒を酌み交わし奇譚なく互いの意見を交えることを大切にされていたはずだ。