第92章 帯解き
モヤモヤと晴れぬ心のまま、結局明け方までろくに眠れず寝返りを打ち続けた信長は、翌朝まだ陽が昇る前の暗い時間には既に起き出していた。
今日は堺で異国との大きな商談があり、早朝から城を出ねばならない。
商談の成り行きによっては、数日堺に滞在することになるかもしれなかったが、そうしたことも朱里に話す機会がないままに当日になってしまっていた。
「御館様…」
「……光秀か。出立の支度は済んだのか?」
薄闇の中に紛れるようにすっと姿を現したのは、堺へ同行する光秀だった。
相変わらず飄々として人に気配を読ませない光秀は、衣擦れの音もさせずに足元に跪くと含みのある意味深な視線を投げてくる。
「はっ、全て整っております。いつでも出立いただけますが…このまま参られますか?」
「……何か言いたそうだな?」
「いえいえ…本当に奥方様に言わずに行かれるのかと、少々意外でして」
「っ…このように早い時間では、朱里も吉法師もまだ眠っておるだろう。ほんの数日、堺へ行くだけだ。わざわざ起こしてまで伝えるほどのことはない。余計な気を回すな」
「はっ、ご無礼を申しました」
深紅の瞳が不機嫌そうに顰められたのに対して、光秀はすかさず頭を下げる。
ここ数日、信長の機嫌が悪い。
何がどうという訳ではないが、いつも以上に近寄り難い雰囲気をピリピリと発している。
信長の心を揺さぶる相手など一人しかいない。
珍しく喧嘩などされたのか、朱里とはまともに話もされていない様子で、心配性の秀吉などは、お二人の間でオロオロとしているようだった。
喧嘩など滅多になさらない仲睦まじい二人が、此度は珍しく拗れていて、その原因が思い当たらないために秀吉もどうしていいのか分からないようだ。
(小娘が何か拗ねているようだが…御館様もいつもなら上手く宥めて収められるところなのに、此度はまた、らしくないな…)
政務が急に忙しくなったことも災いして、話をする時間も取れず、お互いに歩み寄れぬままのようだった。
(御館様が朱里に知らせずに城を出られるなど、夫婦になられてから初めてだろう。これ以上拗れぬとよいのだが……)
まだ薄暗い城内を迷いのない足取りで歩いていく信長の背後に光秀は影の如く付き従いながら、その背中を憂い顔で見つめていた。