第92章 帯解き
「朱里、俺だけど…入っていいか?」
仕事の合間に朱里の自室を訪れた秀吉は、部屋の外から遠慮がちに声をかけた。
「秀吉さん?どうしたの?」
寝かしつけの途中だったのだろうか、吉法師を腕に抱いた朱里は部屋の入り口に立つ秀吉の姿を見て、少し驚いたように目を見開いた。
「あっ、悪い。吉法師様の寝かしつけ中だったか?なら、出直して…」
すぐさま踵を返しそうになる秀吉を、朱里は慌てて引き止める。
「いいよ、大丈夫。お乳をあげたとこだから、すぐ寝ちゃうと思うし…ちょっと待っててね」
「おー、悪いな」
腕に抱いた吉法師をゆらゆらと揺らしながら寝かしつける朱里を横目で見守りながら、秀吉はゆっくりとその場に腰を下ろした。
口元に優しげな笑みを浮かべて、腕の中の吉法師を見つめる朱里。
微かに聞こえてくるのは、優しい声の子守唄だった。
昼下がり、障子越しに射し込む陽射しが、部屋の中をぽかぽかと温かくしてくれている。
(あー、何かいいな…こんな穏やかで満ち足りた時間が訪れるなんてな。長年戦に明け暮れて、ゆっくり城にいる時間なんてなかった。御館様が天下布武を成し遂げられ、吉法師様がそれを繋いでいかれる。戦のない世が続いていく…そんな未来がもうすぐ来るんだ)
「……秀吉さん?」
物想いに耽っていた秀吉に声をかけた朱里は、吉法師を傍らの布団に寝かしつけ、秀吉の向かいに腰を下ろしていた。
「っ…あぁ、すまない。考え事しちまってた。吉法師様は?眠られたか?」
「うん!秀吉さん、お仕事はいいの?何かあった?」
「ん…あっ、これお前に…」
持ってきていた包みを差し出す。
「わぁ、これ、栗饅頭?美味しそうだね!」
「城下の茶屋で最近話題になってるやつなんだ。栗、好きだっただろ?」
「うん!ありがとう、秀吉さん!今、お茶淹れるから一緒に食べよ!」
いそいそとお茶の準備をする朱里を、いつまで経っても無邪気で可愛いなと秀吉は思う。
御館様の寵妃、二人の御子の母になっても何一つ変わらない、大事な妹のような存在。
(御館様との間のことをあれこれ聞くのは気が引けるんだが…やっぱり心配だしな)