第92章 帯解き
「も、申し訳ございません。あのぅ、御館様、昨夜のお話ですが…勿体ないお言葉ですが、今暫く猶予を頂きたく…いずれはきちんと致しますので」
「…………何の話だ?」
文机の前にさっさと移動しながら怪訝な顔をする信長の後に、秀吉は慌てて付き従う。
「え?あっ…俺と千鶴の、祝言の…話、ですけど」
「なんだ、いきなり…」
「へ?いや、昨日の宴で、その……」
秀吉は何だか話が噛み合わないなと思いながら、昨日の宴でのやり取りを説明すると信長はますます怪訝そうな顔になり、口を噤んでしまった。
「…………」
「御館様?」
「はあぁ……」
「っ…あの、御館様?覚えていらっしゃらないのですか?」
「そのようだな。自覚はなかったが、かなり酔っていたのだろう。宴の途中から、後の記憶がない」
「それは…珍しいこともあるものですね。御館様がそこまで酔われるとは…」
「言うな」
深紅の瞳にギロリと鋭く睨まれてしまい、秀吉は肩を竦める。
常に完璧で隙のない信長が初めて見せた頼りなさに、人間らしい親しみを覚えて、秀吉の頬は我知らず緩んでしまいそうになる。
御館様自身は、酔って記憶をなくすなど不本意極まりないのだろうが、敬愛する主君のそういう頼りなさげなところを垣間見て、秀吉の心はふわりと温かな心地になるのだった。
しかし………
(何でまた、こんなに機嫌が悪いんだ…?)
酔って記憶をなくすぐらいのこと、言ってみればどうということはない。
御館様にとっては初めてのことかもしれないが、世間一般にはよく聞く話だ。
大坂城でもたびたび宴が開かれるが、宴たけなわになると、家臣達が広間の彼方此方でクダを巻いて乱れている光景が見られるのだ。
此度の宴の席で、信長がそこまで酔っていたことに気付いていた者が果たしてどれぐらい居ただろうか…おそらく大部分の者が気付いていなかっただろう。
幸いにして、御館様の威厳が傷つく事態にはなっていないはずだ。
だからこそ、信長の不機嫌の理由が分からず、秀吉はどう対応していいのか戸惑っていた。
(御館様が不機嫌になる原因なんて…朱里のこと以外には考えられないが…一体、何があったんだ?)