第92章 帯解き
「ふぇ…ふぇーんっ…あぅ…」
(………んっ…何だ…泣き声…何の…)
泥のように重い頭の片隅に微かに響く泣き声に、信長の落ちていた意識はゆっくりと浮上する。
固く閉ざされていた目蓋は、射し込む眩いばかりの陽の光に、ピクピクと揺らいでいた。
だが、霞がかかったように朦朧とする意識の中では、すぐには上手く頭が回らず、重い目蓋を持ち上げることも叶わない。
己の身体が自由にならぬことなど、これまでにもなかったことで、信長は戸惑いながらも、緩慢に寝返りを打って寝台の上に身体を起こした。
「ツッ…くっ…」
上半身を起こした途端に、酷い頭痛に襲われて思わず口から呻き声が漏れる。
ガンガンと鈍器で殴られるような酷い頭痛に加えて、胃の腑がムカムカと不快に痛み、心なしか吐き気もするようだった。
(何だこれは…昨日の酒のせいか…)
昨夜の宴では確かに随分と飲んだ気もするが、二日酔いなど、これまであまり経験がない。
祝いの席でいつも以上に酒がすすんだのは覚えているが、宴がいつ終いになったのかさえ、記憶にない。
どうやって天主まで戻ったのか…その記憶すら曖昧だった。
ズキズキと痛むこめかみを抑えながら起き上がり、己の身なりを振り返ってみると、着物はかろうじて着てはいるものの、随分と乱れた有り様だった。
日頃の酒の席では、家臣達相手でも隙を見せるわけにいかず、記憶をなくすほど飲むということはなかった。
酒で失態を犯すなど愚の骨頂と思い、どんなに飲もうが酔って記憶をなくすような真似はしなかった。
それが昨日は…知らず知らずのうちに盃を干す頻度が増していたようだ。
愛娘の晴れの日を喜ぶ気持ちと、大人に近づき始めた娘の成長を心の片隅で寂しく思う気持ちとが攻めぎ合い、我知らず揺らぐ胸の内を周囲に悟られまいと、らしくもなく虚勢を張っていたのかもしれない。
「はぁ……」
深く吐息を吐き出せば、いまだ酒が残っているのか、くらりと目眩がする。
そのまま再び寝台に沈んでしまいたかったが……
「ふっ…ふぇ…あぅ、わぁーん…」
(っ…吉法師っ…?)
静かな朝の天主に響き渡る、場違いなほどに元気な赤子の泣き声が二日酔いの信長の頭に容赦なく降り注ぐ。