第91章 家族
「吉法師のことは私が見ていますから、今のうちに信長殿はご政務をなされよ」
文机の上の山盛りの報告書をチラリと見て、報春院は信長に声をかける。
「くっ…かたじけない、母上。ご迷惑をお掛けして…」
「ほほ…そのような遠慮は無用です。吉法師は私にとっても大事な子じゃ」
柔らかく微笑む母の笑顔を、信長は眩しいものでも見るかのような面持ちで受け止める。
その後、報春院が吉法師を見守る傍で政務に取り掛かった信長は、先程までの苛立ちが嘘のように落ち着きを取り戻し、淡々と報告書を片付けていった。
書類に目を通す傍ら、時折チラチラと母を見ていた信長は、その慈愛に満ちた表情に心がじわりと温かくなるのを感じていた。
(母とこんな風に時間を過ごせるようになるとはな……)
昔の自分と母の関係を思えば、今のこの時間は奇跡にも近い。
朱里と出逢わなければ、朱里を愛さなければ、俺は孤独を孤独とも思わぬまま、たった一人で修羅の道を歩んでいたであろう。
朱里は俺を変えてくれた唯一無二の女だ。
何にも替えがたく、何人も彼女の代わりにはなれない。
そう思うと、朱里が堪らなく恋しくなる。
(っ…朱里っ…)
「信長殿…」
「っ…母上っ…?」
名を呼ばれてハッと顔を上げると、報春院は口元に柔らかな笑みを浮かべてじっと信長を見つめていた。
「ご政務は終わられたか?」
「あ、あぁ…」
母に吉法師を委ねて、手元の仕事に憂いなく集中できたおかげで、いつの間にか報告書の山は片付いていた。
どうやら、墨が乾き始めた筆を手にしたまま、ぼんやりしてしまっていたらしい。
「ならば、朱里殿を見舞って差し上げなされ。病の時は心細くなるもの、ましてや吉法師と離ればなれで、色々とご心配なさっておられるに違いない。お傍にいて差し上げなされ」
「っ……」
朱里を恋しく思う己の気持ちを見透かすかのような報春院の言い様に、信長は言うべき言葉が見つからなかった。
母に軽く頭を下げて、信長は足早に広間を出る。
逸る心のまま廊下を進み、真っ直ぐに天主へと向かう。