第91章 家族
「まぁまぁ…随分とご機嫌が悪いことね」
柄にもなく途方に暮れていた信長に、その場に似合わない穏やかな声音で話しかけたのは、広間に入ってきた報春院だった。
「母上っ…」
突然の母の登場に戸惑いを隠せない信長を目で制して、報春院はその腕の中で泣き叫ぶ吉法師の顔を覗き込む。
「あらあら…吉法師、父上様を困らせてはダメよ。さぁ、信長殿」
自然な感じで差し出された報春院の手に、信長は少しの躊躇いもなく吉法師を手渡していた。
まるでそれが至極当たり前のことであるかのように……
「ふっ、ふぇ…」
「おぉ…よしよし良い子じゃ、吉法師。母上様の代わりに、婆が抱いて差し上げましょうぞ」
慣れた手付きで吉法師を抱く報春院を、信長はその傍らで黙って見ていた。
何が違うのか、先程までうるさいぐらいに泣いていた吉法師は、報春院の腕の中でゆらゆらと揺られるうちに泣き止みつつあった。
やがて寝ついた吉法師を報春院はそおっと布団の上に寝かせたが、どうしたことか今度は目を覚ますことはなかった。
「っ……」
「まだ話も出来ぬ赤子じゃが、母がおらぬことで何か不安を感じているのであろう。それと……父の苛立ちも、な」
「くっ……」
「イライラしていると子にも伝わります。焦ると余計に思いどおりにならぬものじゃ。少し、肩の力を抜きなされ」
報春院の余裕の笑みに、全て見透かされているような、何とも言えない面映さを感じて、信長は堪らず目を伏せた。
母に説教されるなど、初めてだった。
子供の頃の母は、信長に関わろうとしなかった。
褒められた記憶もなければ、叱られた記憶もない。
口煩く信長を叱責するのは父や傅役で、母はいつもそれを黙って見ているだけであったように思う。
母に気にかけてもらいたくて、酷い悪戯をしたり悪態を吐いたりしても、母は面と向かって自分を叱責するようなことはなかったのだ。
(母から諭されることが、こんなにも心地良いとは……)