第91章 家族
悩ましげな顔で黙ってしまった信長に、朱里もまたそれ以上言葉を重ねることができず、ただ黙って見つめるしかなかった。
信長を悩ませるつもりはなかった。
結華が産まれた時、信長は一度、母に一緒に暮らさないかと言ったことがあった。
長年、互いに理解し合えなかった二人が、遅ればせながら少しずつ親子の関係を築き始めていた頃で、それまでの数十年間頑なだった信長の心が、自ら母の存在を求めたのだ。
けれど…信長の願いは叶うことはなかった。
(義母上様は、信長様と一緒に暮らすことではなく、これまでどおり遠くから見守ることを選ばれたのだ。信長様を大切に思うのと同じぐらい、お市様のことも大切に思われているから。
母の愛とは、なんて大きくて尊いのだろう……)
「信長様っ…あの…」
「朱里っ!」
長い沈黙に耐えかねて口を開きかけた私を制するように、信長様が声を上げる。
「俺は…母上の望むとおりでよい。母上が市の傍にいてやりたいと願うなら、そのお気持ちを乱すことはできん」
「でもっ…それでは信長様のお気持ちは…」
「俺は、市から大切なものをいくつも奪った。これ以上は…母までも奪うことなど許されぬことだ」
「そんな……」
信長様は、浅井、朝倉との戦でお市様の夫、浅井長政様を討ち、浅井家を滅亡に追いやった。
長政様の嫡男は側室の子で血の繋がりはなかったが、お市様は大層可愛がっておられたそうだ。まだ幼かったその子も、お市様は喪った。
信長様は、お市様から愛しい者を奪ってしまったことを悔いておられるのだろうか。
「言っておくが、俺は浅井を滅ぼしたことは後悔していない。この乱世では裏切りは常だ。長政が俺を裏切り、朝倉についたことを責めるつもりはないし、その長政を討った俺が非難される筋合いはないと思っている。殺さねば殺される…それが乱世に生きる者の宿命だ」
「信長様っ…」
「……と、貴様に出逢う前の俺ならそう割り切っていたな」
「え?」
「天下布武のためならば多少の犠牲は仕方がない。倒れた者の屍を越えた先に、戦のない世が築けるのだと、そう思っていた。
だが…貴様と出逢って、俺は変わったのかもしれん。
今なら、大切なものを喪った市の気持ちが少しは理解できる。
身勝手なと思われるかもしれんが」
そう言って自嘲気味に表情を歪ませる信長様が堪らなく愛おしかった。