第90章 月に揺らぐ
清めが終わり、入室が許された信長は、朱里が横たわる褥の傍へとそっと腰を下ろす。
赤子は産婆によって産湯を使っているということで、まだ会えぬということだった。
「信長様っ…」
真新しい白い夜着に着替えた朱里は、少し疲れた表情ではありながらも、信長の姿を見ると、晴れやかな笑顔を見せた。
母になった喜びと大仕事を終えた誇らしさが溢れる、美しい笑顔だった。
「朱里っ…よく頑張ったな」
「信長様…ありがとうございます」
「礼を言うのは俺の方だ。貴様は俺に再び子を授けてくれた。嫡男を産んでくれたのだから」
「はい…私、無事にお世継ぎを産めました。信長様がいつでも私を守って下さったおかげです。ありがとうございます」
「朱里っ…」
「本当に元気な若君でしたよ。産まれた瞬間、大きな声で泣いて…ふふ…私、あの子の元気な泣き声を聞いたら、お産の疲れなど吹き飛んでしまいました」
「そうか…早く会いたいものだな」
「間もなく産湯も終わりますよ。たくさん抱いてあげて下さいね」
「あぁ…それまでは貴様を労うとしよう。朱里、ご苦労だったな」
「えっ…あっ…んっ…」
頬にチュッと唇を寄せ、そのまま唇へと口付ける。
いつもより少し乾いた唇を潤すように舌でなぞり、チュッチュッと軽く音を立てて口付ける。
(愛おしい…この世の中で誰よりも愛おしい)
心の奥深いところから溢れてくる愛おしさに突き動かされ、髪を撫で、顔中に口付けを落としていく。
「朱里っ…愛してる」
「んっ…あっ…信長さまっ…」
唇を重ね合わせ、二人だけの甘い時間に酔いしれていると……
「あー、コホンっ…」
いきなり聞こえてきた遠慮がちな咳払いの音に、重ねていた唇をビクリと離す。
いつの間に戻ってきていたのか、産婆が困ったような顔をして所在なげに立っていた。
その腕には、真っ白いおくるみに包まれた赤子が抱かれている。
「……お邪魔を致しまして申し訳ございません。お仲が良くて何よりですが、ご出産後は血の道の乱れなども起きますれば…暫くの間
、男女の触れ合いはお控え頂きたく……」
「っ…分かっておる」
きまりの悪そうな顔でそっぽを向く信長の様子が可愛くて、朱里はそっとその手に触れた。