第90章 月に揺らぐ
先程までの慌ただしさが嘘のように、シンと静まり返った中で、大きく響き渡る、力強い赤子の泣き声。
精一杯声を上げ、泣き続ける様は、己の存在を主張するかのようだ。
「はっ…あっ……」
赤子の声を聞いた瞬間、思わず息を飲んでいたようだ。
次に息を吐いた途端、強張っていた全身の力が抜け、その場から動けなくなった。
(っ…産まれたのか…朱里は…子は…無事なのか…)
今すぐ目の前のこの襖を開けて確かめたい。早く……
胸の奥から湧き上がる、どうしようもない衝動に突き動かされ、襖に手を伸ばしかけると………
「信長様っ…おめでとうございます。若君様のご誕生でございます!」
呆然と立ち竦む信長の目の前で襖が開き、千代が感極まった、今にも泣き出しそうな顔で告げる。
「っ…朱里は?大事ないのか?」
「はいっ!お疲れのご様子ですが、お身体にも大事なく…今、御身を清めていらっしゃいますので、暫しお待ちを」
「あぁ…っ…そうか、若君…男子か…」
「はいっ!誠にお元気な若様です。姫様の願いが…ようやく叶いましてございます!」
我が事のように嬉しそうに言う千代の目には大粒の涙が浮かび、見る見るうちに零れ落ちる。
「千代も皆も、大義であった。朱里と赤子を、よう守ってくれた」
「信長様っ…」
早く会いたい。
己の子を再びこの世に産んでくれた愛おしい存在。
その身の無事を、この目で確かめたい。
疲れ切っているであろうその身体を抱き締めて、優しく摩ってやりたい。
労いの言葉をかけて、心からの感謝の言葉を伝えたい。
今朝起きるまで、変わらぬ日々が続くものだと思っていた。
誰もが穏やかに過ごせる、争いのない世の中を作るため、己の為すべきことに邁進する日々。
大望のため、己の身を投げ打つ覚悟で生きてきた俺に、朱里は守るべきものを与えてくれた。
生きる糧を 生きる意味を 与えてくれたのだ。