第90章 月に揺らぐ
朱里を産室に運んだ信長は、そのまま部屋の前に腰を下ろした。
侍女達が忙しなく出入りする横で胡座を掻き、何かに耐えるように固く目を閉じて微動だにしない信長に、誰も声をかけることはできなかった。
部屋の中からは、朱里の苦しそうな声が絶え間なく聞こえてくる。
『んんーっ、うっ、くっ…』
『奥方様っ、もっと力を入れて…息んでっ!』
『ううぅ…痛っ…痛いっ…やっ、あぁ!』
『姫様っ…今一度ですよ、さぁ!』
『ああぁ…うっ…あっ、くっ!』
(くっ…朱里っ…)
胡座を掻いた膝の上に置いた手を、爪が食い込むほど強く握り締めた信長は、無意識に歯も食いしばっていたようで…ギリッという歯ぎしりの嫌な音が頭の中に響いて顔を顰める。
(朱里があのように苦しんでいる時に、何もしてやれぬとは…)
初めてのお産の時も、ただ待つことしか出来ず、歯痒い思いをした。
女子は、十月十日もの長きに渡り、己の胎内で子を守り慈しみ育てて母になるのだ。
それに比べて、男はいつも見守ることしか出来ぬのだから……役に立たんと言われても仕方がない。
女子とは…母とは…何と強き存在なのだろうか。
『んっんんーっ、いやぁ…』
『奥方様っ、今少し、力を入れて!』
『くっ…うぅ…あーーっ!』
信長の感慨を吹き飛ばすように、朱里の一際大きく苦しげな声が部屋の外にまで響き渡る。
侍女達も、沸かした湯や清潔な布などを持ってひっきりなしに部屋を出入りしていて、慌ただしさが増しているようだ。
昼頃に産室に入って、もう夕刻だ。外はいつの間にか夕闇が迫り、城内にも灯りが灯り出していた。
いよいよその時が近いのだろうか……
普段の淑やかな様子の朱里からは考えられもしない乱れた叫び声を聞いて、信長の心の臓はバクバクと煩く騒いでいる。
平静を装っていた信長の我慢もいよいよ限界が近かった。
(神頼みなど柄でもないが……頼むっ、無事に産まれてくれ…)
祈るような気持ちで、両の拳をグッと握り締めて立ち上がったその時だった……
『ふぁ…ふわぁ…ふあぁ…おぎゃあぁ……』