第90章 月に揺らぐ
それから暫くの間、信長は朱里の気が紛れるようにと、傍に寄り添い他愛ない話などして時を過ごした。
今日の軍議は中止にして政務も秀吉に一任し、付きっきりで朱里の傍にいる信長に、千代や侍女達も気を遣ってくれているのか、なるべく二人きりでいられるようにしてくれているようだった。
知らせを聞いた報春院や武将達も駆けつけてくれたが、献身的に朱里に寄り添う信長の姿を見て、そっと見守るように案じてくれていた。
「朱里、昼餉は食べられそうか?」
「っ…痛っ…今はちょっと無理っ…んーっ、痛いっ…」
昼近くなって、それまでゆったりと横になっていた朱里の様子に変化が見られるようになった。
徐々に痛みが増してきているのか、時折、身体を丸めて襲い来る痛みに耐えている。
「くっ…朱里、家康を呼ぶゆえ、暫し待て」
痛みに耐える朱里の腰の辺りを摩ってやっていた信長は、急いで立ち上がると、近くの部屋に控えている家康を呼ぶ。
家康は急ぎ足で室内へと入ると、痛みに苦しむ朱里の様子を見て表情を険しくする。
産婆と共にいくつか診察した後、家康は、額に汗を浮かせて痛みに耐える朱里に声をかける。
「朱里っ…もうすぐだよ、頑張って。信長様、朱里を産室に移動させて下さい…なるべく動かさないように、お願いします」
「分かった」
苦しそうな朱里をそっと抱き上げた信長は、揺らさぬようにゆっくりと、用意された産室へと向かう。
「信長様っ…」
信長の胸元へぎゅっと頬を寄せた朱里を安心させるように、その額にチュッと口付ける。
このまま傍にいてやりたい。
額に浮かぶ汗を拭いて、痛む腰を摩っていてやりたい。
手を握って、共に痛みに耐えてやりたい。
お産は女子の戦だなどと言わず、苦しい時こそ共にいてやりたい。
「朱里…」
「信長様っ…大丈夫です。心配なさらないで。私、この子を…貴方の大切な御子を元気に産んでみせます。だから…待っていて下さいね」
「くっ……」
痛みに顔を顰めながらも、ニッコリと微笑んでみせる朱里の、母になる女子の強さを目の当たりにして、信長はそれ以上何も言えなかった。