第90章 月に揺らぐ
「…朱里、入るぞ」
家康と産婆の診察が終わり、取り敢えずのところ、すぐにお産が始まることはないということになり、入室を許された信長は、そっと襖を引き開ける。
「信長様っ…」
褥の上に白い夜着姿で横たわる朱里は、透き通る陶器のような美しい肌が常よりも青白くなってしまっていて顔色も悪かったが、信長の姿を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「朱里っ…」
その健気な様子に、堪らず褥の側に寄り、掛布の外に出ていた華奢な手を取った。
(っ…冷たいな。身体が冷えているのか……)
元々が冷え性な体質の朱里は、冬場は手足も冷たくなりがちなのだが、まだ今は秋口だ、身体が冷えるには早すぎる。
「朱里、寒くはないか?冷えるなら、部屋を暖めさせるが…」
小さな手を両手で包み、摩りながら問いかけると、朱里は小さく首を振る。
「大丈夫です、信長様。動けないだけで、他は変わりはないのです。良いのか悪いのか…痛みもまだ僅かですし。急にこんなことになってしまって…心配かけてごめんなさい」
申し訳なさそうに目を伏せる朱里の姿に、胸がきゅうっと痛む。
(自分が一番辛いだろうに…不安で仕方がないだろうに…俺は貴様に何もしてやれんのか…)
「朱里…今はただ待つしかない。子が自ら出てこようとするのを…待っているしかないのだ。だが…案ずるな。俺の子だぞ?このままじっとしているわけがあるまい。すぐに暴れ出すに決まっておる」
「まぁ!ふふふ…本当に…そうですね。信長様の御子ですものね。元気に出てきてくれるに違いないですね」
「あぁ…だから貴様も、その時に備えて今はゆっくり休んでおれ。魔王の子との戦は骨が折れるぞ?」
「ふふ…信長様ったら…」
柔らかく微笑む朱里の頬にそっと手を伸ばし、両手で包み込む。
唇にふわりと触れるだけの口付けを落とす。
微かに触れたその唇はいつもどおりぽってりと柔らかで温かくて…いつまででも触れていたかった。