第90章 月に揺らぐ
「んっ…やっ…信長さま…」
甘い声を漏らしながら腕の中で身を捩る姿が可愛くて、その首筋に顔を埋めて深く息を吸う。
朱里の匂いを深く吸い込むだけで気持ちが安らぐ。
少しの間でも離れるなど、もはや出来そうもない。
「起きるにはまだ早い。もう少し、貴様とこうしていたい」
「あっ、んっ…でも…」
襖の向こうを気にする様子に、『あぁ、ここは朱里の部屋だったな』と今更に思い出す。
人払いがしてある天主の寝所と違って、奥御殿のこの部屋の近くには侍女達も控えており、まだ朝早い時刻とはいえ人目が気になるのであろう。
千代を始めとする侍女達も、まさか俺が昨夜ここで休んだとは思ってもいないだろう。
朱里の褥で横になる俺を見たら、侍女達はどんな顔をするだろう。
そう思うと……何だか可笑しくなってきた。
「くっ…っくくっ…はっ…」
「!? 何で笑ってるんですか?」
「いや、別に…くっ……」
「もぅ!信長様?ちょっ…そんなに声出さないで下さい…誰か来たらどうするんですか!」
朱里を背後から抱き締めたまま笑いが止まらない俺を、焦ったように声を潜めて窘める。
「まだ夜明け前だ、誰も来ぬ。誰か来たとて気にすることもない。俺の城で俺が何をしようと勝手だろう」
「なっ……」
「それに、すっかり忘れているようだが…昨夜、俺を誘ったのは貴様の方だぞ?」
「やっ、そんな紛らわしい言い方しないで下さいっ!酔っておられたのに…覚えていらしたの?」
「記憶がなくなるほど酔ってはおらん。確か、貴様が寂しがって離れたがらぬゆえ、こちらで休んだのではなかったか?ん?」
「ううっ…そう、でしたっけ…」
わざとらしく後ろから顔を覗き込んでやれば、恥じらうように顔を背けるのがまた何とも可愛い。
(あぁ…もう今日はこのまま離したくない。いっそもう、人払いして、朱里と一日中この褥の上で過ごしたい)
朱里との他愛ない戯れあいがこの上なく楽しくて、この至福の時間が永遠に続けばいいのにと思ってしまう。
夜が明けてきているのか、部屋の中が次第に明るくなってきているのが恨めしい。
そろそろ起きねばなるまいか……
朱里を本気で困らせたいわけではない。
間もなく城内も慌ただしく朝の支度が始まるのだろう。
今日もまた変わらぬ一日が始まるのだと、その時の俺は疑いもしなかった。