第90章 月に揺らぐ
「思い当たるようなこともなくて…信長様があんなに不機嫌なのは初めてで…私、どうしたらいいのかっ…」
一度心の内を吐き出してしまえば、次から次へと不安が止まらなくなり…涙が溢れそうになってしまう。
「朱里殿、落ち着きなされ。あまり興奮すると、お腹の御子にもよくないですよ」
「っ…でも……」
気が付けば、乱れた心のまま、膝の上でぎゅうっと強く手の平を握り締めていた。
血管が浮くほどに強く握り締められた手を、義母上様の手が、上からそっと包み込んでくれる。
「朱里殿……信長殿はな、貴女が心配なのですよ」
「…………え?」
(心配って……どういうことだろう…)
「もういつ産気づくかも分からぬ頃だというのに、朱里殿は少し無理をし過ぎてはおりませぬか?
結華の帯解きの準備に、奥向きの差配に、と毎日忙しく動かれて…私も些か心配しておりました」
「で、でも…子を産んだ後は、思うように動けぬものですし、今の内からできるだけのことを準備しておきたくて……。
結華の時は何もかも初めてで、思うようにならず、歯痒い思いを致しましたから…」
妻として母として、自分ができることをできる内にしておきたい。
信長様にも迷惑をかけたくなかった。
「信長殿は、頑張り過ぎる貴女が心配なのであろう。もっと頼って欲しい、もっと自分に甘えて欲しいと…そう思っておられるのかも知れぬ……決して口には出されぬがな」
「っ………」
「何でも一人で頑張ろうとなさる貴女のことが心配で、自分が頼りにされぬことが不満なのであろう。子供みたいに拗ねておられるのじゃ。
ふふ…あの信長殿が、のぅ……」
ふふふっ…と含み笑いを溢す義母上様の言葉に、私は信じられないような気持ちだった。
(信長様がそんなことで拗ねるなんて…私を心配して下さっているのは分かっていたけれど…)
大人しくしていろ、と何度も言われていたが、あと少し、これだけはやっておかねば、と逸る気持ちが先に立ち、ここ数日は信長様の言うことに耳を貸そうともしていなかった。
(だからあんなに怒って…?それで機嫌がお悪かったの…?)
「あの子は…信長殿は己の気持ちを素直に伝えるのが苦手な御方じゃ。昔も今も…変わらぬな」
「義母上様っ…」
ふと、頭上に浮かぶ美しい望月を見上げる。
この同じ月を、信長様も今、ご覧になっているのだろうか…