第90章 月に揺らぐ
陽が落ちて夕闇が広がり始めた頃、本丸御殿の庭に設けられた桟敷席には、今宵の見事な月を邪魔せぬようにと控えめに小さな灯りが点される。
秋色の澄んだ空気の夜空には、冴え冴えと蒼白い光を放つ望月が浮かんでいた。
皆、頭上の月を見上げては、その見事な輝きに感嘆の声を上げている。
(はぁ…綺麗…いつまでも見ていられる)
朱里もまた、信長の隣で夜空を見上げては美しい月にうっとりと見惚れていた。
綺麗なものに見惚れていると口数が少なくなるのか、今宵の宴では皆、静かに酒を酌み交わしているようだった。
「信長様、どうぞ」
隣に座っている信長の盃に酒を注ぎながら、その表情をチラリと見る。
注がれた酒に薄く唇を付けるその横顔がひどく妖艶で…ゾクリと肌が震えてしまう。
(うっ…色っぽいな。お酒を飲んでいらっしゃる時の信長様、今更だけど色気があって格好良くて……好きだな)
思わず熱っぽい目でじっと見つめてしまうけれど…信長様と目が合うことはなかった。
「………………」
(信長様…まだ怒っていらっしゃるのかしら…)
いつもなら、宴の最中でも、人前でもお構いなしに視線を絡めたり、時には触れてくださったり、と大胆になさる信長様が、今宵は淡々と盃を干しておられるだけで……要するに、私に構ってくださらないのだ。
物憂げに月を見上げながら男らしく酒を呷るお姿はうっとりするほど素敵で、私の周りの侍女達でさえも、先程から落ち着かなく信長様を見つめている者が多かった。
普段以上に女性達の視線を集めている信長様を目の当たりにして、私の心は揺れに揺れていた。
(うぅ…皆、信長様に見惚れてるし…気になって仕方ないよ…)
「……信長様?」
私の方を見て欲しくて、純白の羽織の袖をクイっと小さく引きながら呼びかけた。
「……どうした?気分が優れぬか?」
かけられた優しげな言葉で、不安になっていた気持ちが一気に晴れていくのを感じる。我ながら、単純過ぎるかもしれない。
「っ……信長様っ…あの、何か怒っておられますか?私、何かお気に障るようなことを……」
「は?貴様、俺に怒られるようなことがあるのか?」
優しげだった口調が一気に不機嫌そうなものへと変わり、眉間に深く皺が寄るのを見て、しまったと思ったが…あとのまつりだった。