第90章 月に揺らぐ
信長様は随分と変わられた。
義母上様に対する態度も、以前と比べて随分と穏やかになった。
私が初めて義母上様にお会いした時、信長様の義母上様を見る目は酷く冷たかった。
一切の感情を消し去った、諦めにも似た冷たい表情で義母上様を見下ろし、親しく話をするどころか、自分から口を開こうともなさらなかった。
けれど……母への激しい拒絶は、狂おしいほどに母からの愛を求める渇いた心の裏返しだったのだ。
信長様は本当は今からでも母上様と一緒にお暮らしになりたいのかもしれない。
「母上、ここにおられたか」
「信長様っ!」「父上っ!」
物想いに耽っていると、前触れなく襖が開いて信長様が入ってこられた。
「朝の軍議はもう終わられたのですか?」
結華の頭をポンポンと優しく撫でてから、その場に腰を下ろした信長様に茵をお勧めしながら、心の中で今朝は随分早いなと思う。
「ああ…ここのところ、戦や一揆のような不穏な動きもないのでな。今朝は、簡単な報告だけだった」
「それは良うございました」
こうして、毎日が争いごとのない穏やかな日々になっていけばいいと思う。
結華やお腹の子が大人になる頃には、争いごとがなくなり、生まれや身分に左右されずに誰もが思うままに生きられる世の中になっていて欲しい。
一朝一夕にできるようなことではない。
信長様が天下を治められるようになってからも、いまだ完全に争いごとがなくなる日は来ていない。
それでも、信長様や武将達がその手を数多の血で汚し、その心を削ってまでも実現させようとしている、争いごとのない世を、私もまた願わずにはいられなかった。
「結華、お祖母様と囲碁をしておったのか?」
「はいっ!父上」
「ふふ…結華は本当に頭が良い子じゃ。囲碁の相手も私では物足りないようでな…私などすぐに負けてしまいますよ」
「三成とも良い勝負だと聞いたぞ。先が楽しみだな」
目を細めて結華を見遣る信長様の表情は、この上なく穏やかで慈愛に満ちたものだった。
(あぁ…こんな風に、義母上様を交えて穏やかに家族の時間が過ごせるなんて夢のようだわ)