第90章 月に揺らぐ
「報春院様は、再来月の結華様の帯解きの儀の折に、大坂へお越しになるのでしたね」
「ん…以前よりその予定であったのだがな…朱里の産み月が来月ということもあり、産後の手伝いなども兼ねて、少し早めに大坂へ参りたい、と仰せだ」
「それは良いですね。報春院様がいてくだされば朱里も心強いでしょうし、結華様も喜ばれるでしょう」
「あぁ、出産後の身体で帯解きの準備を取り仕切るのは、朱里も大変であろう。結華の衣装などは既に決めておるものの、俺も帯解きなど、女子の行事ごとのしきたりはよく分からん。母上が来て下さるなら、それに越したことはない。
……ご厚意に甘えさせて頂こう」
「っ…御館様…」
御館様が報春院様を頼りになさる日が来ようとは、秀吉にも驚きだった。
かつてはあれほどに冷え切った関係だったお二人が、朱里を通じて歩み寄られていく様子を、ここ数年、間近に見てきた秀吉は、心の底から湧き上がる嬉しさを隠せなかった。
(朱里は、今や御館様にとってかけがえのない存在だな。朱里の存在が、御館様を取り巻く環境を良いものに変えてくれている)
来月には、お二人の間に待ちに待った御子がお産まれになる。
男子であればと秘かに望む気持ちは強いが、お元気に産まれてさえ下されば、どちらであろうと喜ばしいことに違いない。
御館様の喜ばれるお顔を早く見たいものだ、と秀吉は表情を緩めるのだった。
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「まぁ!義母上様が、そのようなお文を?」
「あぁ、この月の終わり頃には大坂へ来て下さるそうだ」
その日の夜、天主へ戻った信長は朱里へ母からの文を手渡しながら廻縁に面した障子を開け放つ。
満月が近いらしく、今宵の月は明るく煌々と光り輝いていた。
障子を開けると、蒼白い月の光がさぁーっと室内へ射し込んでくる。
既に行燈には火が入っていたが、それがなくとも今宵は月の光だけで十分に明るく、初秋の澄んだ空気と相まって、室内は幻想的な雰囲気に包まれていた。
「今宵は一段と月が美しいですね。月見酒でもなさいますか?」
「ん…そうだな、少し飲むか…」
部屋の外に控える小姓に酒の支度を命じてから、朱里は改めて義母からの文に目を通すのだった。