第90章 月に揺らぐ
重陽の節句の日の翌日
信長は朝の軍議の後、いつものように執務室で大量の書簡に一つ一つ目を通していた。
昨日の昼間、秀吉に整理を命じておいたので、急ぎのものとそうでないものとが丁寧に分けられており、信長の手によってサクサクと澱みなく書簡は片付けられていく。
(相変わらず秀吉の仕事は隙がない。彼奴の働きぶりには目を見張るものがある。これで少し融通が利けば、申し分ない男なのだがな…)
真面目過ぎる右腕は、信長の命で書庫に資料を取りに行っているところだった。
「ん?」
文机の横に高く積まれた書簡を次々に片付けていた信長が、次にと手を伸ばした先には、他と趣の違う上品な文があった。
「文か…誰からだ?」
裏書きを見るために、手に取って裏返すと、ふわりと上品な香が香る。
「っ…母上か……」
文の差出人は、伊勢国で弟の信包と暮らしている母親の報春院だった。
母とは、幼少の頃は疎遠で互いに心を通わすこともなかったが、朱里との婚姻をきっかけに長年のわだかまりが徐々に解けていき、今はこうして時折、文のやり取りをするまでになっているのだった。
表書きを外し、中の文を取り出すと、信長は母の流麗な文字に目を落とす。
信長も美しい字を書く方であるが、母である報春院もまた、目を奪われるような美しい手跡の持ち主であった。
(こうして穏やかな気持ちで、母上からの文を読むような日が来ようとは、以前の俺ならあり得なかったことだ。朱里が結んでくれたのだ…俺と母上との間を…)
「御館様、お待たせを致しました。お求めの資料はこちらに……っと、失礼を致しましたっ…」
襖を開けて入ってきた秀吉は両手に資料を抱えたまま信長の傍近くまで来るが、信長が私信らしき文を読んでいることに目敏く気付くと、慌てて一歩下がった。
「構わん、秀吉。伊勢の母上からだ」
「報春院様からですか?あちらは皆様、お元気にお過ごしでいらっしゃいますか?」
「ああ、市も姪たちも健勝に過ごしておるそうだ。朱里が間もなく産み月を迎えるゆえ、ご心配下さっているようだ」
母からの文には、信長や朱里を案じる言葉が書き連ねてあり、再来月の結華の帯解きの儀のことについても触れてあった。